すべての言葉は創作だということ

言葉はすべて創作であり、すべての言葉は嘘だ。
言葉は「今まさに起きていることそのもの」ではない。

すべて創作であり嘘なんだということを自覚した上で本気でエネルギーを注ぐと、言葉は、受け手の中でそれぞれの真実へと反転する力をもつ。すぐれたフィクションが読み手の中でリアルに裏返るのはそういうことだ。

言葉をほどく

「言葉を紡ぐのではなく、言葉をほどく」ということについて考えはじめたのは5~6年前だ。「言葉をほどくということは、思考、現実、世界(という分離、幻想)をほどくことだ」と自分で書いていながら、それは一体どういうことか?と考えていた。

自分の内も外も膨大な量の言葉であふれていて、無自覚でいると言葉によって「分かったつもり」なだけの結び目が作られ、時も命も切り取られるばかり。そして、それは実際に「生きる」ことではなく、ただその都度都合よく解釈しているだけだ・・・そんな風に感じて、「言葉をほどく」ということを追いかけていた。

「思考を思考でほどくことはできない。言語化して切り分けるたびに生命力は削られていく。感覚を素直に行動することで生命力はスムーズに循環する。感情も思考も動くことでほどけていく。」

少し前にも私はこのように書いていた。感覚を素直に行動するとは、言葉にして「わかった」つもりになる前に、それをそのまま体験し、感覚・感情そのものになるということ。

カタチはあとから創られるもの

このところ、周囲の誰と話しても、それぞれの本性や本音や本質をいよいよ隠せなくなって「本体」そのもので生きる方へと変化しているように見える。

みな、とびきりおもしろい本性ばかり。

あらゆる既存の枠を超える本体(本性・本音)そのものとして生きることによって、現実(環境)は常に最適化されていく。そういう個によるユニークな現実創造がますます当たり前になっていくのだろう。

思考も感情も自分ではないし、役割も名前も自分ではない。あらゆる形はその時々の都合でしかないということだ。そして、自分本体というのはあらゆる形を超えるもの。どう現れ、どう流れるかは、常に未知数。

形に自分をおさめるのではなくて、いつでも自分そのものであることによって形は自ずと創られていく。

蘇生

夢の話。手術室あるいは研究所のような場所で、既に心臓が止まった男性の身体をしかるべき時に蘇生するため保存しようとしていた。現場には何人かのスタッフがいて、彼の肉体をパーツに分けて液体に漬けているようだった。ホワイトボードのようなものに大きく「蘇生」と書かれていたのを覚えている。

蘇生の準備がされている男性は私の恋人あるいは友人のような近しい人だったが、顔は覚えていない。私は特に感情はなくて「こういう風にするのか」と作業工程を冷静に観察していた。私自身もスタッフメンバーだったが、作業には携わっておらず、どうやら観察者および指揮的立場にあるようだった。

夢の中では、死んだ人(肉体)を蘇生するのはごく普通のことだった。私より上役にあたる立場の男性がホワイトボードのようなものに「蘇生」と大きく書いたが、「蘇」という漢字は実際には見たことのない文字だった。しかし、夢の中ではそれを「蘇生」と問題なく読んでいた。

思考の都合

頭(思考)は現状に都合のいい範疇でわかる(と思える)ことしか受け入れたがらない。現状にとって都合のいい理屈をつけるために意味を考え、理由を作り出す。そして、都合の悪いものは「ないもの」として無視したがる。

しかし、実際に肉体(意識)で起きていることの多くは、頭(都合)の範疇を超えている。

夢は現実よりもはるかに大きい

いつもよく思うのは、夢というのは現実(だと思っている世界)よりも大きいということだ。夢の中で起きていることの方が、現実の中で自分がすること・できることよりもはるかに大きい。

目覚めている間にあれこれ考え、行動し、何かをなんとかしようとしなくても、夢の中で勝手にいろんなことが起きていて、それがいつの間にか現実を動かしている(現実になっている)。

なんとなく思っていることや無意識にイメージしていることが、夢の中ではシンボル化されて展開していく。夢は思考の範疇を超えているので、その内容は理屈としてはめちゃくちゃだけれど、それはつまり、いつの間にか私たちを制限している思考(自我)の枠を超える現象が夢の中では起きているということだろう。

よく眠り、たくさん夢を見ることは、自分本体を素直に生きるために最も大切な要素だと思う。

夢を見るというのは、多くの無自覚な思い込み(機械的に繰り返される思考)とそれに伴う感情的反応から解放され、正誤や善悪といったあらゆる判断を超えたところで、自分の中に起きている現象をありのまま体験することだ。

善悪を超えたところ

Out beyond ideas of wrongdoing and rightdoing,
there is a field.
I will meet you there.
When the soul lies down in that grass,
the world is too full to talk about
language, ideas, even the phrase ‘each other’
doesn’t make any sense.

Extracts from Rumi’s poetry “A Great Wagon”

私がルーミーのこの詩(抜粋)をTwitterのトップに固定表示しているのも、仮想空間「Salón Uran(天王星サロン)」を立ち上げたのも、あらゆる二元性を超えたところで出逢い、話し、交わりたかったからだ。

私にはできないことも、他の誰かならできるかもしれない。私の中にある形なきビジョンを、誰かがどんどん形にしてくれるといい。もしかしたら逆の動きもあるかもしれない。

それをするのが誰なのかはどうでもいい。生まれ出てくるビジョンやイメージそのものの命だけが重要で、それを誰が形にするかは大した問題ではない。そして大切なのは、それらがそのものの命のまま形になるのを妨げないことだ。

自他という思いこみがなくなるところでは、それは容易い。

二元性を超えるビジョンやイメージで一致する人たちと出逢う時、そこにどんなものが生まれるのかを見てみたい。

外化と同一化

既に自らが思う通りに行動して、自分の本望を生きているというのに、それでも他者を批判し、他人や世界を変えたがる人が多いのは、正しい/正しくないという機械的思考=無自覚な引き裂かれ、つまり二元性(という幻想)がいかに根深く、またいかに都合のいいものであるかということを示しているのだろう。

他者の言動や在り方に否定的な反応をしてしまうのは、それとまったく同じ要素が自分の中にもあり、さらに自分のその側面を自分が否定しているからにすぎない。それは、相手が身近な人であれ、有名人であれ、政治家であれ、同じこと。

自分の内的な引き裂かれ・分離を外化(他者に投影)して否定し、消してしまおうという闘いは、「相手を救いたい、他者を癒したい」という思いこみで現れることもある。いずれにしても「自分の内側を見るのではなく、他者を変えたい」という点は同じ。

他者に対する否定的反応は、そっくりそのまま同じことが実は自分の中で起きているということを認めるだけで、やがて「どうでもよく」なって消えていく。

Unfolding

思考を思考でほどくことはできない。言語化して切り分けるたびに生命力は削られていく。感覚を素直に行動することで生命力はスムーズに循環する。

感情も思考も動くことでほどけていく。

明確な理由はすべて嘘

もっともらしい理由を考えはじめたら、そこには嘘があるということだ。理由よりも先に実は分かっているし、実はすでに行動している。関係も物事も行動も「それらしい理由」を考え出したら「それは本当(本音)ではない」というサイン。