内も外も自然

過去にも何度か書いたけれど、木は話しかけてくる。割と乱暴に、遠慮なく、いきなり言葉ではないエネルギーでにゅっとこちらに入りこんでくる。木は一切暴力的ではないが、木には人的な優しさや気遣いなどはない。

木から放たれるメッセージは自我の範疇を超えているので、思考によって理解することはできない。だから、たとえば「木がこんな風に言っている」などというのは、その人がただそう思いたいだけのことだ。逆に言えば、どんな風に解釈することもできる。つまり、夢と同じように象徴的だ。

木のエネルギーがいきなりにゅっと入ってくると、思考よりも先に肉体が反応する。自我は戸惑うけれど、肉体は即座に反応して動き出す。それをただ感じているのはただ気持ちいい。

つい自分の外側に自然を見てしまいがちけれど、身体の内側にもまったく同じように自然現象が起きているということを実感して味わうのは、意味もなく愉しい。

「わかる」とは?

理解しているから書くのではなく、わからないから書いている。しかし、書いたからといってわかるわけではない。

書くことによって運ばれる先にあるものをただじっと見ていくだけだ。

むしろ、書くほどにわからないことがますます明らかになる。「わからないこと」に気づいて、それを認めて、それでも書くことによって運ばれる先にあるものをじっと見ていく。

「わかる」って一体どういうことだ?とよく思う。

私たちは「わからない」「受け入れられない」ことが不快なのだろう。時にそれは耐え難く、だからなんとかして理解しようとする。

しかし、わからないことは無限に現れるので、手っ取り早く「わかったつもり」になりたくて、つい物事を単純化しようとする。

このように、なるべく早く「わかる」ことが目的になってしまうと、本質を見失いやすい。

「わからない」状態から逃げることなく、わからないままにじっと見つめることによって、「わかる」を超える何かがやってくることがある。

私たちが本当にたどりつきたいのは、実はそこなのではなかろうか。

We are water.

We are dreaming water in different tubes.

I am seeing the reflections on the water in the transparent tubes called ‘others’.

You are hearing the sound of water flowing through a tube called ‘me’.

 

水面に揺れる反射光を見るたび「私」とはあれら一瞬の輝きのようなものだと思う。とどまることのない無数のゆらぎ。

誰かという透明な筒に流れる水に反射する光と色を見ている。
私という透明な筒に流れる水の反響が届いている。

Aveiro, Portugal, 2014