New world, new phase

「所有を完全に放棄すると、裏返ってすべてが自分自身(自分のもの)になる」という状態を数年前から徐々に体感していたけれど、ここ数週間ほどでその意識状態に完全に移行したようだ。

意識と動きに軸がしっかりと通って、カチッと完全にはまった感じ。

本格的に新しいステージが始まる。

所有という幻想から抜けると

「私が」というこだわりがなくなる=「私」が消える=あらゆる所有を放棄すると、ひっくり返ってすべてが自分になる。

所有を放棄するとは、有形無形に関わらず「自分」を含むあらゆる流動を流動のままに見ること。あらゆる面において「ここからここまで」という線をひかないということ。つまり境界を超える(境界が消える)こと。

ますますはやく

ある人との対話の中で、互いに人としての形(体裁)から完全にはみ出した状態で言いたい放題に言葉にして笑っていたら、おもしろいキーワードやイメージがぽんぽん飛び出して、最終的には「すごくいい!完璧!」としか言いようのないシナリオができあがった。

はなからゴールが決まっている打ち合わせではなく、行き先や目的がまったくない対話だからこそ、新しい何かがぽっとそこに現れる空間が生まれる。

そうして見えない世界で創造されたものは、それそのものの命の流れで、ふさわしい時と形で現実になっていく。

 

思っていること、言葉にしたことがどんどん現実になる。しかも、誰かがやってくれていたり、誰かのところで実現していたりする。「あ、形にする(体験する、獲得する)のは私でなくてもいいんだ」となってからはますます速くておもしろい。

「自分」がなくなると、ここまで速いということを実感している。自分と他者(世界)との境界がなくなるのだから当たり前だろう。それは見えない世界と見える世界の境がなくなるということでもある。

メンターという働き

私は、アイデアやヴィジョンが形になる前の「エッセンス」に深く関わることが多い。それらを生み出す人と、目に見えないところで関わることになると言えばいいのだろうか。しかし、それらを現実的に形にする作業やプロセスには関わることが少ないので、自分の働きを端的に言葉にするのは難しい。

実際に関わりのある人に尋ねてみたところ、「助言者、配線工、ガイド、支援者」とやはり私は精神的・内的なところで深く関わる働きをしているようだ。

何かいい言葉はないかなと思っていたら「メンター」という言葉が浮かんだ。これが今のところ最も近いかもしれない。

望みすら必要のないレイヤー

数ヶ月前なら「こうなったらいいな」などとさらに先を思い描いただろう展開について、今ではすっかり「そんなことはどうでもいいし、それは他の人がやれば(得れば)いい」と思っている自分がいる。

そう気づくたびに、望みはいつでも形ある結果ではなく、動きや流れそのものだと実感する。

たった数ヶ月で望みがまったく違っている。望みのレイヤーが異なるので、現実的には望み(思い)そのものがない。この変わり様は無責任で軽々しいけれど、それぐらいの速度でいるのがいい。

「思い」がないと軽くて速い。そして、そこで成すべきこと成されるべきこと(起きるべきこと)のみがさっさと進む。時には瞬間的に終わることもある。

究極的に言えば、素直に運ばれてその場に存在するだけで完了する。

本当の「仕事」とはそういうものかもしれない。

 

流木ピンホールカメラを手にして

バルト海沿岸で拾われた流木と貝殻とシーグラスと琥珀で作られたこのピンホールカメラは、アーティストSergey Lebedevさんの作品。この小さな穴の開いた木の箱が、これまで手にしたカメラの中で一番しっくりきている。

実は私はレンズやカメラにはあまり興味がないということをやっと認めることができた。手元にあるライカはこれからも使っていくけれど、さらにカメラやレンズが欲しいとは思わない。どうやら私はそこには興味がない。

私はいつまでたってもカメラの仕組みが覚えられないし操作できない。それは、私がそこに興味を持っていないからだということがやっとわかった。「ただ穴が開いただけの木箱が自分にとってまったく無理がなくて愉しい」という体験がそのことに気づかせてくれた。

私はデジタル画像を加工することにもまるで興味がない。なので、デジタルカメラで撮った写真はいつもほぼそのまま。デジタル一眼レフカメラは特に操作できなくて持て余すので、設定は常にほぼ同じ。

で、それでいいということだ。興味がないことをする必要はない。苦痛がないこと、無理がないこと、自然なことだけをやっていればいい。それが本当にやりたいことなんだから。

 

Sergey LebedevさんのWebサイト → Pinholeworks

彼のインタビュー記事
Driftwood Pinhole — An Interview With Camera Maker Sergey Lebedev

Sergey Lebedev Handcrafts Unique Pinhole Cameras Using Driftwood

 

自分という枠におさまらず生きる

その対象が組織だろうが政府だろうが、自分の外側に見ている大きなものに対して憤っている人って、「自分」という思いこみでしかない枠組みに自分本体をおさめようと無理をしていて、その内的な無理や引き裂かれを外側に外在化しているだけなんだよね。

被害者マインドの仕組みも同じ。社会問題や環境問題だって同じことだ。

「自分」とか「人間」とか「社会」といった思い込みの枠に自分本体を無理におさめようとしなければ、つまり、一体の生き物としてのエネルギーの動きや流れに素直になれば、個から世界は変わるという事実は考えるまでもなく当然のことになる。

はみ出すエネルギー

この数年ほど、なぜか本が読めなかったし、音楽もあまり聴けなかった。読みたくなって本を開いてもすぐに身体が拒否するので、あきらめて放置していた。先週あたりから急にまた少し本を読みだし、音楽を聴きはじめた。そういう波はあるものだ。

でも、もうそんなにたくさんの本や音楽は要らない。体裁よく整えられた「おはなし」は要らない。言葉そのものから作者本体がはみ出しているような文章や、音からエネルギーがはみ出してあふれているような音楽だけでいい。

本や音楽だけでなく人も同じくで、体裁よく「人間」という枠におさまろうとしている人ではなくて、本体がすっかりはみ出していて、それをそのまま正直に生きている人だけでいい。そういう人は見ているだけでおもしろい。動物と同じ。

内も外も自然

過去にも何度か書いたけれど、木は話しかけてくる。割と乱暴に、遠慮なく、いきなり言葉ではないエネルギーでにゅっとこちらに入りこんでくる。木は一切暴力的ではないが、木には人的な優しさや気遣いなどはない。

木から放たれるメッセージは自我の範疇を超えているので、思考によって理解することはできない。だから、たとえば「木がこんな風に言っている」などというのは、その人がただそう思いたいだけのことだ。逆に言えば、どんな風に解釈することもできる。つまり、夢と同じように象徴的だ。

木のエネルギーがいきなりにゅっと入ってくると、思考よりも先に肉体が反応する。自我は戸惑うけれど、肉体は即座に反応して動き出す。それをただ感じているのはただ気持ちいい。

つい自分の外側に自然を見てしまいがちけれど、身体の内側にもまったく同じように自然現象が起きているということを実感して味わうのは、意味もなく愉しい。

裏か表か

これまでも大抵いつもそうだったけれど、名目や理由といった表向きの事情や展開はあくまでも「そこへ自分(およびすべての関係者)を運ぶための流れ」でしかなくて、その中で実際に起きる「大事なこと」は、それらとはまるで異なることや、まるで想像がつかないことだったりする。

たとえば私は仕事や用事で旅に出るとよく思わぬ出逢いをする。現地で仕事を終えてぶらぶらしていると、偶然の流れの中でなぜか人の打ち明け話を聞くことになったり、誰かの内的変容のきっかけになったりする。それらはいつも旅の名目や目的とはまるで異なる、想像のつかない展開の中で起きる。

そんなことを何度か経験するにつれて、先の展開に期待や予想をしなくなった。何が起きるかはわからないけれど、何かしら必要があってそこへ行くことになっているらしい。しかし、誰に(何に)とってのどんな必要なのかはわからない。とにかくただそこへ行けばいい。いつもそんな風に思っている。