感情は解放作用

ネガティヴ(と言われる)な感情って、身体に生じた緊張を発散しようとする解放作用なのではないかと考えたことがある。恐れや抵抗感によって身体の特定の部位がギュッと強ばった際に、それをゆるめて解放しようとする作用なのではないかなと。

また、「感じてはいけない、感じたくない」と否定され抑圧された感情というのは、身体の特定の部位に蓄積されるのでは、と考えていた。それはやがて身体の癖となり、感情・思考の癖になり、現実の癖となるのではないかと。

そして、たとえばなぜか同じパターンを繰り返しては、同じ感情を味わってしまうというのは、そうして蓄積(記憶)された感情を身体がリリースしたがっているのではないか、とも考えた。

これらは、4~5年前に、抑圧した感情がほどける時には体の特定の箇所の緊張が緩むことに気づいたことによって辿りついた個人的な論理。

「人生のあらゆる面に影響している自分の中の感情・思考のパターンに気づいた。そして、それは本当は自分ではないということにも気づいた。だから、今はそこから抜け出そうとしている。それに伴い、身体の状態も変化している。」というような話を複数の人たちから聞いているここ数日。

怖いと感じることこそやるべきこと

本当に望むことや、本当にしたいことをするのが怖いのは、それをしたらどうなるかが分からないからだろう。

何かを失うかもしれない、誰か(自分)を傷つけるかもしれない、という恐れ。それはまた、現状を超えてしまうこと、「これまで」を壊してしまうことへの恐れ。

しかし、それらもまた後からついてくる「結果」に過ぎない。

本当に望んでいること、本当にしたいこととは、それを「する」ということだけだろう。それをして、その最中になること。その行為や行動そのもの=状態になること。

数年前に友人が言った「怖いと感じることはやってみるのがいい、嫌だと感じるならやらなければいい。」という言葉はいつも真実だなと思う。

「自分」が消えてなくなる状態へ

昨日友人との対話の中で「具体的に明言できることは実は本当ではない。本当に望むことや、本当にしたいことというのは、すらすらと言葉にはできないものだ。」と話した。

本当に望むことや、本当にしたいことというのは、実は具体的な形ではなく、「状態」だという結論を出した。

具体的に説明できる形、たとえば物事や、場所や、立場などは「結果」として後からついてくるものであり、本当に求めているのは身体と精神の状態だろう。

本当に望むことや、本当にしたいことをしている人は、既にその最中にあるので、そのことを言語化しない。わざわざ今の状態を分析して言葉にする必要がない。夢中になっているので言葉が消えている=行動そのものになっている。つまり、常に「今」そのものである。

本当に望むことや、本当にしたいことをしている状態とは、自分の内側にも外側にも分離がない状態。今この瞬間の行為や行動を、判断したり比較したりする「自分」がいない状態のことだろう。

理解するのではなくそのものになる

これは例え話だけれど、キリストや仏陀のことを理解したり伝えたり教えたりする人になるのではなくて、自らがキリストや仏陀そのものになってしまうのが最もはやい。

後に言葉によって語られた物語としてのキリストや仏陀を言葉で理解するのではなく、彼らが生きたようにまさに生きるということ。

つまり、自分の中の事実をすべて認めて、自分の中の真実をすべて行動するだけのこと。

そういう人はきっと正義感に燃えてはいないし、誰かや何かと闘ったり怒ったりもしていない。教えよう、広めよう、役に立たせようとも思っていない。ただ夢中で生きている。

そして、そういう状態というのは言葉にすることはできない。
行動のただ中、今の最中にあると、言葉は消える。

共振

どういう形になっていくかはわからないけれど、とにかくすごいことになるとだけは分かっている、といういくつかのことが身の回りで起きていて、それらを冷静に観察しながら同時にその最中にいる。

抗えない大きな力に巻き込まれているようでいて、自覚的に参加してもいる。ずっとそんな感じ。個々の動きの連携でありながら、個を超えた力に運ばれている。共振とはこういうことなのかもしれない。

そして、それら以外のことはますますどうでもよくて興味がなくなった。要か不要か、インかアウトかという自分の中の区別が以前にも増してはっきりしている。

裏を表にする力

誰かの中から出てきたもの(誰かを通して出てきたもの)が、自分の中から出てきたもののように感じられることがある。

私たちは自分の中にあるものしか見ることができないのだから、それは当たり前のことかもしれないが、私ができないやり方でそれを見せられたときの驚きは深い。

誰かがその内側にあるものを表すことによって、それに触れる者にも同じものが内側にあるということを気づかせてしまう。それに触れた者の気づかぬうちにべろんと皮をひっくり返して裏を表にしてしまう。

こういう邂逅ほどおもしろいものはない。
芸術との出逢いもそのひとつ。

静寂

本当にすごいものに出会ったときや、本当にすごいことが起きているときというのは、内的には案外冷静で静かなものだということを久しぶりに実感している。

外と内は反転している

私が一緒にいて楽だな、居心地がいいな、好きだなと思う人は、男でも女でもなくて、同時に女でも男でもある人だ。

私自身もきっとそうなんだろう。実際に女でも男でもないし、男でも女でもあるように感じている。身体的には男と女に分かれているけれど、内側にはどちらもあるのだから当たり前のことだ。

私には男性と中性の友人が多いし、パートナーには女性の友人が多くいる。私が親しい男性の友人はみな自然と内側の女性性を発揮している人たちだ。そして、パートナーの友人である女性たちはしっかりと男性性を発揮している人が多い。

内にも外にも「ある」ものは「ある」と認めることから

私たちは自分の内側にあるものしか外側に見ることはできない。つまり、外側に見えているものはすべて自分の内側にあるものだ。

外側に見ている誰かや何かを批判し、否定し、消し去ろうとするのは、自分の中にそれと同じ要素があることが認められないという拒絶反応の現れでしかない。

怒りはいつも自分の中で起きている。資質も、感情も、思いも、自分の中に「ある」ものを否定し抑圧すると怒りになる。

内側に「それ」があることを認めると、外側に見えている「それ」も違って見えてくる。今この瞬間の自分の中にあるものをただ「ある」と認めるだけで、内も外も静かになっていく。

あるものを「ある」と認めるのは、良い悪いと分析し、思考によって理解していくこととは逆方向の働きだ。それは、理屈で分離して切り離そうとしていた自分との再統合。

自分の中にあるものを自分から切り離すことはできないし、それは自分の本来の力を切り刻むことと同じ。

自分の中(外)にあるものを「ある」と認めると、それも含めてすべてが自分になり生命力が増す。生命力とは本来の自分を生きる力。

それはつまり、自分が本当にしたいことをして、本当に得たい経験、本当に見たい世界を生み出す力。

徳島へ

今日はある人に会うため徳島市内へ。

顔をあわせてすぐ話が止まらなくなり、あっという間に数時間が過ぎた。言葉も感覚もスムーズに通じ合って、話すのも聞くのも本当に楽しかった。

意味も理由も目的もなく、互いの感覚をひたすら素直に表して、循環そのものになる時間は本当に愉快だ。良い悪いなどという判断を超えたところ、互いのすべてがOKなフィールドでは、1+1が10にも100にもなっていく。

どこへ行っても何をしていても、私がやっているのはいつも同じことのように感じていたけれど、今日お会いした方から「つなぐ人」と言われたのは新鮮だった。何かと何かをつないだり、人の内側の回線をつないだり。

「あ、これをつないだらおもしろそう!プラグの形がちょっと違うけれど気にしない、えい、つないじゃえ!」という私の子どもみたいに乱暴なところもちゃんと言い表してもらえておもしろかった。

性別も年齢も来歴も関係なく子どものように無邪気に遊べる人との出会い。嬉しい一日。