どこでもなくて、どこにでもあるところ

Twitterのタイムラインに、流木と貝殻とシーグラスでピンホールカメラを作っているロシアのアーティストに関する記事が流れてきた。

カリーニングラード在住のSergey Lebedevさんは、他にもいろいろとユニークなカメラを作り出している。WEBサイトでは作品の販売もされており、彼のInstagramには美しい写真もたくさん掲載されている。

 

バルト海沿岸で撮られたSergey Lebedevさんの写真を見ているうちに、忘れていたことを思い出した。

ピンホールカメラというキーワード、吸い込まれそうになるほど音のないモノクローム写真、Sergey Lebedevさんの屈託のない表情。いくつかのことが組み合わさり、いきなりするりと異なるレイヤーに移行して、大切なことが掬い上げられたような感じだ。

 

「あ、そうだった」と思い出したけれど、それはまだ言葉にはできない。そして、ここにいながら別の場所の気配や匂いを感じ取っているような、不思議な感覚が続いている。

これは、2011年夏に、ある人の写真を初めて目にした時に起きた現象に似ている。あれから思いもよらない巡り合わせが起きて、続いて、そうして今もちゃんとつながっている。彼から譲り受けたものは今もちゃんと手元にある。

流れのままに運ばれた世界を覗いてみたり、時には未知の世界に飛び込んでみたり、物理的にもまったく予想外だった場所に着地したけれど、不意に思い出した地点は同じところだ。

「あ、そうだった、ここ(これ)だった」と思い出す。
それは、どこでもなくて、どこにでもあるところ。

 

「わかる」とは?

理解しているから書くのではなく、わからないから書いている。しかし、書いたからといってわかるわけではない。

書くことによって運ばれる先にあるものをただじっと見ていくだけだ。

むしろ、書くほどにわからないことがますます明らかになる。「わからないこと」に気づいて、それを認めて、それでも書くことによって運ばれる先にあるものをじっと見ていく。

「わかる」って一体どういうことだ?とよく思う。

私たちは「わからない」「受け入れられない」ことが不快なのだろう。時にそれは耐え難く、だからなんとかして理解しようとする。

しかし、わからないことは無限に現れるので、手っ取り早く「わかったつもり」になりたくて、つい物事を単純化しようとする。

このように、なるべく早く「わかる」ことが目的になってしまうと、本質を見失いやすい。

「わからない」状態から逃げることなく、わからないままにじっと見つめることによって、「わかる」を超える何かがやってくることがある。

私たちが本当にたどりつきたいのは、実はそこなのではなかろうか。

イタリア、ヴェネト州の記憶

昨日ふと、ヴェネツィアの記憶が蘇ってきた。Google mapをしばし眺めて、冷たく湿った冬のヴェネツィアの空気と気配を思い出していた。

そして、ヴェネツィアを訪ねた後にしばらく滞在したヴェネト州トレヴィーゾや、サン・ビアージョ・ディ・カッラルタ、オデルツォで目にしたもの、感じた気配、人々とのやりとりや出来事を思い出していた。

トレヴィーゾ(Treviso)

サン・ビアージョ・ディ・カッラルタ(San Biagio di Callalta)

オデルツォ(Oderzo)

一週間ほど滞在したサン・ビアージョ・ディ・カッラルタの小さな宿がとても良かったから、ぜひまた泊まりたい。宿の1階には大人気のピッツェリアがあって、いつも美味しいイタリアンが食べられる。そして裏のガレージには丸々とした元気なにゃんこが数匹。家族経営の居心地のいい宿だった。

Love beyond understanding

理解できるから、わかるから、愛するのではなく、理解も「わかる」も超えたところで愛は起きるもの。

愛は「やってくる」。命と同じように。

そんなことを何年か前につぶやいたのを覚えている。

 

 

「理解できたり、理由が言えたら、それは対象を鏡像にした自己愛でしかない」

私たちが「愛」だと感じているものの大半はこれかもしれない。

しかし、それが悪いというのではない。何かや誰かに反映された自己愛を通してでも、意味や理由や理解を超えてやってくる愛にたどり着くことはある。

 

「気持ち」や「命」や「魂」といった言葉と同じように、「愛」という言葉にも複数のレイヤーがあるように感じている。そして、私の個人的な感覚においては「愛」というのは「命」に近い。

愛も命と同じで、私や誰かのものではないと実感する時がある。

たとえば、どうにも苦しくて受け入れられないものも、ただじっとひたすら見つめつづけていると、ふと「理解する」「わかる」「受け入れる」という思いを超えることがある。

それは、私の中から溢れるようで、あちらからやってくるもの。

日本語についての対話~関係に左右される「私」という一人称

前記事に引き続き、日本語についての対話とそこから出てきた考えを書く。

友人と日本語の特徴と傾向について話している中で、「(日本語は)その場の力関係に応じて一人称を使い分ける必要があるというのは、周りに影響され続けるということ。相当意識しないと確固たる個を確立することが難しい気がする。」という意見を聞き、確かにそうだなと同感した。

立場や力の違いによって「私」の形が変化する。ということは、常に相手と自分とを比較して関係の上下を判断する作業が無意識に行われているということだ。

そして、その力の上下を読み間違えると、場合によっては攻撃されたり排除されたりすることもある。そう考えてみると、日本語における一人称選びというのは無意識のうちに随分とエネルギーを消費している。

主語を省略し、意味の薄いあいまいな言葉でその場を満たすというのは、エネルギーをなるべく消耗せず、且つ力の上下の読み違いを防いで自衛するのための方法なのかもしれない。

 

その場の力関係や立場の上下によって変化する「私」という一人称と、肩書や立場などあらゆる条件を超える存在としての「私」とは、本来別のものだ。後者のが存在の総体を指すならば、前者はその一部ともいえる。

このレイヤーの違いが自覚できていれば、一人称の変化に揺さぶられることのない、ただあるがままの存在としての「私」のまなざしを保つことができるのだろう。

 

日本語についての対話と、感覚と思考と言葉の一致について

 

このツイートへの反応がじわじわ続いている。これが日本語の構造と性質によるものなのか、日本語話者が陥りやすい傾向なのか、それとも言語が違えど同じ傾向があるのかということを、私自身も考え続けている。

 

 

思考の伴わない中身の薄い言葉で場を満たすことが習慣化しているとすれば、その人は自分自身に対してもそうなのかもしれない。

情報、食べ物、関係、環境、あらゆることにおいて、本当に自分の感覚で選んだわけではない「何かや誰かによっていいとされたもの」を無自覚に自分に与えているのではないか。

感覚と思考と言葉が一致しないことは誰にでもあるし、内的葛藤はいつでも起き得る。

だから、自分の声と自我の声、言い換えるならば体の感覚と頭の都合の間で揺らぎながらも、どちらの存在も等しく認めて、内なる対話を重ねていくしかない。

そうして一つ一つ、感覚と思考と言葉(行動)を一致させていくことだ。

肉体も変化すれば意識も感覚も変化する。だから、その都度「今、私はこれを本当にいいと感じているか、心地いいか、納得しているか」と自分に問いかけては、感覚と思考と言葉の一致点も更新していく。

そうして「私」もまた破壊と再生を繰り返していく。

幸せというのは

私は家の中で時々いきなり意味不明な動きや踊りをすることがある。

目的も理由もなく、ただ体を動かしたいだけの活元運動的行為なので、動きたい時に動きたいように動いて気持ちよくなったら満足して終わる。

先日そんな私を見たパートナーが「調子良さそうだね、幸せ?」と聞いてきたから「調子が良くても悪くても基本的には常に幸せ」と答えたところ、ちょっと驚いていた。

私自身も言葉にしてみて気づいたけれど、幸せ=満足であるかどうかは、調子や状況の良し悪しとは関係がないようだ。

真の目的を見失わないためには

「私は正しい、私は知っている、私はわかっている」と信じたい傾向は誰にでもあると思う。そしてまた、その「私は正しいと信じたい思い」を揺るがすような存在や意見に対する恐れも同時に存在するだろう。

「私は正しい」と信じたいのは自我の都合だ。自我はそういった思い込みによって支えられている。

だから、それが揺さぶられるような存在や意見に出逢うと途端に不安になり、時に躍起になって「どちらが正しいか」という闘いへと挑んでいく。

 

「どちらが正しいか」という闘いにのめり込み、本来の目的を見失うというのはよくあるパターンだ。個人的な対話からあらゆる議論までさまざまな場面で目にする。

そして、本当に求めていたのは正誤や善悪による決別ではなく、それらを超える新しい視野と解決だったはずが、それを見失ってしまう。

今日もまさに典型的な体験談を耳にした。ある意見に対して「そうではないケースもあるよ」と異なる見解を述べ、それに関するデータを示したところ、不機嫌になった相手から拒絶されてしまったらしい。

 

こうした「どちらが正しいか」という自我の闘いに呑み込まれないようにするためには、「本来の目的」に自覚的であることが必要だろう。

そもそもどこにたどり着きたくて、その考えや意見を持ち出したのか?そもそも私(相手)は何を求め、何を望み、どのように願っているのか?ということ。

 

また、「どちらが正しいか」という闘いの裏にあるのが自我の恐れであるなら、やはりこの場合も、今この瞬間の自分の感情と感覚を一つ一つ明らかにすることで内的動揺は落ち着くのではなかろうか。

「私は今、反論を受けて怒りを覚えている」「私は今、異なる意見に揺さぶられて不安を感じている」と素直に認めることができれば、感情はその場で自覚化されてほどけていく。

 

何度も書いてきたことだけれど、やはり、今まさに自分が感じていること、今の自分の感情や感覚を、きちんと認めて表現する(言葉にする)ことは大切だ。

今の自分が感じていることを正直に表し、本当の思いや望みを素直に伝えるという訓練と繰り返し。それが、あらゆる自我のトラップを超えて自覚化を促す秘訣だろう。

 

表現の変化、言葉の変化

 

一昨日の記事に書いたように、数年前までの私のツイートがまどろっこしくて時にくどかったのも、まさにこういう働きが私の中にあったからだ。

自分の中にある甘えや期待=「わかってもらいたい、関心をひきたい」という思いが文章に現れてしまうことを恐れて、懸命に隠そうとしていたのだと思う。

 

 

 

数年前までの私の文章と最近のそれとの違いは、まさにこのツイートに書かれている作業の繰り返しによるものだろう。

自分の中の期待=「わかってもらいたい、関心をひきたいという思い」と、反論や異なる意見に対する恐れを自覚した上で、「今現在の自分の感覚や感情、考え」をできるだけ正直かつ冷静に言葉で表現することが習慣化してきている。

そして、それを繰り返すうちに期待や恐れがなくなってきたのも確かだ。

期待も恐れも、「それが自分の中に確かにある」ということを認める=自覚化すると、障害ではなくなる。そうすると、自分の中の抑圧が消えて、言葉(表現)はより素直になる。

 

 

 

私も、自分の中の隠蔽回路を自動化させずに、できるだけそれを超えつづけていきたい。「これが私(事実、真実)である」といったことにこだわるよりも、「私」の中に起きる働きを通して見えてくる普遍性を追求していく方が愉しいからだ。

「わかりあえる」という思いこみを超えて尊重しあうこと

 

「わかりあえるはず」という思い込みの根底には、「わかってほしい」という無自覚な期待がある。しかし、そもそも別々の存在である私たちがすべてをわかりあえるはずがない。

むしろ「決してわかりあえない」からこそ、互いを尊重しあえる妥協点を共に見つけていこう、という方が無理がない。

「わかりあう」ことは、快適に共存するための必須条件ではない。

互いにさっぱりわからなくても、私は私でいいし、あなたはあなたでいいのだ。

真に「わかりあう」ということは、「決してわかりあえないけれど、それでも互いの存在や価値観や感覚や考えを等しく尊重しあう」ということではなかろうか。