思わぬ展開、愉快な時間

昨日は、写真審査を通過した友人がオーディションに参加することになり、私は彼女に同行してオーディション中に娘さんを預かることになっていた。

ところが当日、彼女は一人でやってきた。パートナーが思いがけず早くに帰宅したので、娘さんは自宅にいることになったらしい。

彼女について行ったオーディション会場では、私に最初のテレビドラマの仕事をくれた方と再会。いくつかの思わぬ展開に後押しされて、私も急遽オーディションに参加することになった。

そもそも今回の仕事は、私の予定が撮影日程にあわせられそうになかったので、彼女に「応募してみては?」と紹介したものだった。

会場で再会したマネジメントの方に「せっかく来たんだし、ぜひあなたも参加しなよ。」と笑顔で言われ、慌ててスケジュールを調整したら、結局予定はなんとかなってしまった。

特別な意識もなくふらりと出かけた先で、突然オーディションに飛び込むことになり少し焦ったけれど、これも縁だと思って愉しんだ。

再会したマネージャーさんご夫婦も、静かな事務所の雰囲気も、穏やかで居心地がよかった。おもしろい展開になったことで、友人とはその後ますます盛り上がり、たくさん話をした。

今回もまた二人で撮影に参加できるように祈っている。

 

彼女とは、昨年の夏に別の友人を介して出逢った。出逢いからまだ一年も経っていないことに改めて驚く。

昨年秋に二人でドラマの撮影に参加して以来、とても愉快な関係が続いている。彼女との出会いがなければ、自分がテレビや映画に出演するなんて思いもしなかっただろう。

彼女は、私をまったく新しい世界の扉へと導いてくれた人だ。

当然ながら、出逢った時にはそんなことは思ってもいなかった。彼女だってそうだろう。それが今ではよき同士として互いに応援しあい、時に助けあいながら、それぞれの活動を愉しんでいる。

不思議な巡り合わせによって、互いに必要な機会をもたらしあっている。そうして、互いの活躍を喜んでいる。

いつも本当にありがとう、Sさん。

エネルギーの注ぎ方~快適であるために

昨日友人とも話していたのだが、エネルギーを無駄に分散させないことは快適に生きるための基本だ。

エネルギーを不要な思考に回さない、不必要な言葉を使わない(思ってもいないことや望まないことを言わない)、無理や我慢が生じることをしない。

自分にとって「どうでもいいこと」「どちらでもいいこと」は放っておく。それらに振り回されない、エネルギーを不要に消耗しない。

そして、今の自分にとって本当に大切なこと=今の自分の心身が快適でいられるためのこと、今自分が本当にしたいこと、夢中に没頭できることに、エネルギーを惜しみなく注ぐ。

「今の自分にとって本当に大切なこと」と「本当はどちらでもいいこと」をきちんと認識するためにこそ、低思考でローエネルギーな「副交感神経オン状態」が必要だと言えるかもしれない。

それは、「変えられるもの」と「変えられないもの」をきちんと見極めるためとも言える。

 

私自身は、アウトプットしている時よりも、むしろ静止している時の方が、内的には濃密な活動が起きているように感じる。そして、静止状態=副交感神経オン状態を十分に満足して過ごしていると、アウトプットの機会は様々な形で自ずとやってくる。

昨日と今日はローエネルギー状態だった。一昨日は集中状態を長時間持続させてエネルギーを出し切ったので、十分に満足して静止状態を味わった。

参加できる喜びと感謝

昨日の撮影はとにかく暑くて長かった!

くたくたに草臥れたけれど、どのシーンもみな面白くて、濃いキャラクターがいっぱいで、監督もスタッフもみないいムードで、とても愉快な現場だった。

完成がとても楽しみだ。

現地に16時という予定が、朝10時過ぎの電話で「11時半に来れないか」と言われ、「そんな無茶な」と思いながらもなんとか12時に到着。

既にたくさんのメンバーが撮影に入っていて、私も衣装に着替えたらすぐに現場へと移動させられ、「完全スッピンで撮影参加か!?」と動揺したけれど、仕方ないと開き直ることにした。

結局その後、私が参加するシーンの直前にちゃんとメイクもヘアセットもしてもらったのだけれど、「スッピンでもやるよ!」という腹の括りがますます自分を落ち着かせてくれて、なんだかまた一皮むけた気がしている。

アジア系の顔や体つきは元々若く見られやすいけれど、化粧をしていないといつも以上に若く見られることが多い。

「ああ、きっと勘違いされているな」と思いながらも、まるでうら若い女性に向けるようなあたたかい眼差しや言葉を「ありがとう☆」と受け止めて無邪気に楽しむことにした。

それにしても、あんなにもバタバタとあれこれ変更が生じる現場は初めて体験した。いつも新しい経験が待っていて、そのたびに新しく学んでいる。

また、端役の私でさえ、衣装スタッフやヘアメイクスタッフ、スケジュール管理や現場対応をしてくれるスタッフ、食事や飲み物を用意してくれるスタッフ等々、たくさんの人たちに支えられている。

監督やカメラマン、照明や小道具スタッフなどの現場の人たちにはもちろん、関わる全ての人にいつも感謝の思いがこみ上げる。

こんな風にすべての人に対して感謝の気持ちを味わえるだけでもありがたいし、こんなにも驚きに満ちた愉快な機会を与えてもらえることにも本当に感謝している。

 

映画やテレビの撮影だけではなくて、どんな仕事内容であっても、「それぞれがそれぞれの役割を担い、それぞれの能力と資質を惜しみなく発揮して、夢中で何か善きものを創り出そうとする場」に参加するのは本当に愉快だ。

これからもっともっと楽しんでいこう。
次の機会をワクワクしながら待っている。

面白いを面白がっていこう

どーんと凹んで、スコーンとほどけた。
そうしたら、なんだかまた面白くなってきた。

昨日は不思議と面白い対話が重なった。
対話の中で、気づいていなかった詰まりが取れて、流れが快適になった感じ。

流れが流れると気持ちいいね。

生きるを生きて、面白いを面白がっていこう。

生きるを生きる

「自分を生きる」という風に「自分」が目的語になると、まるでなかなか辿り着けない切り離されたもののように感じられるという友人の感覚に頷いた。

今ここに生きているのが自分だし、「自分」というのは目的語にはなり得ないのだろう。やはり「生きるを生きる」だなあと感じる。

「私」が「~する、~している」と頭は考えるけれど、実際には動きや感覚そのものだけだ。

チェル子さん改めチェルさん

今日のチェルさん。今日はカメラを持っていなかったのでスマホ画像。もしや男の子?という疑惑が浮上していたけれど、どうやら本当に男の子かも…。なので、呼び方をチェル子さんからチェルさんに変えることにした。

今日はフェンス越しにすりすり。近すぎてうまく写真が撮れず。

フェンス越しながらも、私の姿を見るとすぐにたたたーっと寄ってきてくれた。そろそろ覚えてくれたかな。

 

私の世界は私が創る

今日はかなり久しぶりに大きく凹んだ(本気でしばらく俯いて歩いた)。しかしそれは、自分にとって本当に必要なこと、本当に重要なことは何であるかを問い直すいい機会になった。

痛みを伴う経験も、「それで、どうしたい?どうするの?」と問われているだけだ。そして答えはハッキリしている。

それでもやりたいのか、それとも辞めるか。とてもシンプルなこと。

今日の出来事は、自分の中の無自覚な自己卑下が引き寄せた(反映された)現実だったのだと思う。

だから、そこに不要な意味や理由は探さなくていい。そして、外側にフォーカスするのではなくて、今の自分が本当にやりたいこと、自分が本当に放ちたいエネルギーに専念するだけだ。

与えられた機会はすべて今の私に必要なものだ。どんな対応や反応を受けようとも、私から発せられるエネルギーがどのような状態かということに集中していればいい。望むエネルギーを自らが発すること。

いつだってそれだけなんだということを思い出した。

うっかり外側に沿って生真面目になりかけていたけれど、そこで生じた感情をしっかり味わって、それを正直に言葉にして聴いてもらったら、くるりとひっくり返って状況が面白く見えてきた。

今はもう、新しい実験の場がやってきたよ!とワクワクしている。

私の世界はいつでも私が創るのだ。
どんな状況にあっても、今の自分のありったけを発揮していこう。

演技という召喚術

これこれこういうシチュエーションで、あなたはこんなキャラクターで、こういうことが起きる中で、このようにアクションして、という指示を受けて集中してその人物になるという行為は、まるで召喚術のようだと感じる。

自分の中の未知なる存在を呼び起こす作業。
演技経験など殆どなかった私の感覚。

一時期、魔術書を読んだり手法を学んだりしていた。実際に召喚術を試す機会はなかったけれど、召喚する(される)存在というのは「自分の中のイメージが具現化される」ということなのだろうと感じた。

疑いが少ないほど、それはより具体的に具現化される。

それは結局、私たちが自覚していようといまいと、いつでも意図や思惑を超えて望んだ通りの現実を今まさに体験しているということと同じだな、とも思った。

演技にしても、召喚術にしても、自分の内側の未知なる存在(そこにはありとあらゆる存在が在り得る)を呼び起こす行為であると同時に、宇宙のどこかにあるクラウドデータにアクセスしてダウンロードしてくる作業のようにも感じている。

内と外とがひっくり返って繋がっている。

問いも答えも「私」の中に

”星占い”なんていうけれど、実際に天体の動きや図を通して見ているのは、自分であったり、集合的無意識と呼ばれるものであったりするのだろう。

「見る者」がいなければ、そもそも天体はおろか世界も存在しない。世界のあらゆる物事は「見る者」によって発見され、同時にすべては「見る者」自身を映し出している。

私は、占いというのはただの(非主体的な)未来予測ではなくて、今現在の「私」また「私たち」がどのような状態にあり、どのような未来(方向)を見ているかということを、認識して意識化するためのツールだと思っている。

そういう意味では「占い」でありながら「占い」ではない。

目の前に起きていること(一点)をなるべく素直に認識しながら、同時にその一点が含まれる流れ(プロセス)を俯瞰する。そして、現状と未来を多角的に眺めて検証する。

占星術もタロットカードも、そういった主体的行動のためのツールとして活かせばいい。

問いがあるなら、答えは同時に存在する。
それは占いにおいても同じこと。
そして、最も大切なのは、本当に問いたいことは何か?ということだ。

問いはいつでも「私」の内にある。
だから、答えも「私」の内にある。

新しい出逢い

今日もいるかなと思ったら、いた。そして近づいてきた。

7月=červenecに出逢ったので「チェル子さん」と呼んでいる近所のにゃんこ。

たたたーっと寄ってきてすりすりした後、目の前でぱたりと横になって、身づくろいをしながらごろんごろん。