恐れと支配を超えて信頼することについての対話

恐れと支配のメカニズムについての対話

Twitter上で、リアルタイムで何人かの人と、それぞれの対話の中で、私たちの中で起こりやすい「恐れと支配のメカニズム」について語り合った。

失うことや、壊れることへの恐れと、それに基づく自他へのコントロール欲求について。また、自分や他者あるいは関係や展開をコントロールできないことへの恐れについて。

そこには、変化することへの恐れ=現状を維持できないことへの恐れ=あらゆるレベルにおける死への恐れが根底にあるような気がしている。現状に留まりたいという自我にとっては、たとえそれがさらに快適になるプロセスだとしても、変化は死を意味する。

それは「これまでの自分」ではなくなってしまうことへの恐れとも言えるかもしれない。新たな意識状態や価値観や思考へ変化することによって「これまで」の自分が消失してしまうのではないかという恐れ。

ということは、自我というのは「これまで」という思いこみが作っているのかもしれない。

対等で快適なパートナシップ

このツイートを目にして思い出したことがある。

今ではもうそんなことはないけれど、以前に相方が「後でやるから」と言った片付けだったか洗濯だったかを、私が先回りをしてやろうとしたら、「僕の母親にはならないで」と言われたことがあった。

無自覚だった自分のパターンにハッと気づかされる出来事だった。

相方が最も大切にしているのは、Independentであること、そして自由であることだ。その点で私たちは意気投合して仲良くなったのだが、関係の中で時に私が過去のパターンを繰り返しそうになることもあった。

そのたびに上記のようなやり取りを経て、常に互いに快適なバランスを共に考えてきた。

 

他人同士がひとつの場所で暮らすのだから、互いの快適と不快適が一致しないことなど当たり前だ。だから、どんなに些細なことでもその場で正直に言葉にして伝えあっている。

どちらが正しいとか良い悪いとかではなく、共に暮らすにあたり双方が無理なく快適でいられる方法を一緒に考えて作っていく。

住まいや生活に関することだけでなく、関係のあらゆる面でそういう話し合いをことあるごとに重ねている。互いの感覚や思いを否定せず、それらをただ「ある」ものとして認めた上で、共に無理なく快適でいられる方法を考えては、実際に試していくことの積み重ねだ。

 

相手に対して正直になるには、自分自身に正直である必要がある。相手の感覚や考えを認めてコミットするには、自分自身の感覚や思いを否定せずに認める必要がある。

相手との正直なコミュニケーションを通して、相手との信頼関係だけでなく、自分自身との繋がりもまた同時進行で深まっていくのを日々感じている。

 

相方は彼自身の能力に自信を持っているし、その資質をさまざまな形で楽しんで発揮している。私もまたそんな彼の力を尊敬し、彼の今と未来を完全に信頼して楽しみにしている。

私がこんなに自由で楽で快適にいられるのも、彼が私の力や在り方や今と未来を信頼して尊重してくれているからだと思う。

世界と出逢い、自分と出会いつづけていく

チェコ在住の方から「よくそんなにたくさんのお店や情報を知っているね」とたまに驚かれることがある。

それは多分、私が結婚や留学や勤務先の都合などでここへ来たからではなく、殆ど何も知らないまま単独でたどり着き、誰にも頼らず一人で調べたり、探したり、判断したりするしかない日々を過ごしたからかもしれない。

思いもよらない展開によりプラハにたどり着いた当時は、当然ながら友人も知り合いもいなかった。

話し相手もおらず、さすがに寂しくなって「趣味を通してなら話ができる人に出会えるかも」と思い立ち、タロットや占星術関連のWebサイトを調べて回った。その中で見つけた一人に客として連絡を取ったのが、最初の友人との出会いだった。

その後、彼を通して何人かの友人と出会い、やがてその友人の中の一人の同僚として紹介されたのが現在の相方だ。

人と人はどんな風にして繋がるかなんて本当にわからないものだ。

頼る人もなく、いつも単独で、自らの感覚に基づいて行動するしかなかったからこそ出逢えた人や場所がたくさんある。

ある友人とは、彼女が働くブティックで出会った。ある日、以前から気になっていたその小さな店に入ってみることにした。そこで彼女とすっかり意気投合し、そのまま彼女が通っているヨガのレッスンにも一緒に参加することになった。そうしてさらに人の輪が広がったのだった。

そんな風にして、いつも自分の足でいろんな場所へ出向いては、さまざまな人と出会ってきた。そうして出会った人々に助けられながら自分にできることをしているうちに、気がつけば自分の居場所を得ていた。

今でも行動の仕方は同じで、常に自分の好奇心と感覚に突き動かされては出会いを重ねている。

思い返せばチェコに来る前だって同じだった。

出会いたいし、交わりたりし、知りたいし、体験したい。そんな衝動に正直に行動しているうちに、いろんな場所を発見し、たくさんのおもしろい人々に出会っていく。

どこにいても同じなんだなと思う。

Les Exclusifs de CHANEL – Misia

Les Exclusifs de CHANELの15番目の香り「MISIA」を新たに自分の香りとして手に入れたのは、ちょうど三年前のこと。

それまで20年以上愛用してきた香りからの卒業と、新たな香りへの移行は、私にとってかなり大きな象徴的変化だった。それはまさに新しい人生への移行を意味していた。

「MISIA」とは、19世紀末ベル・エポックにその名を残した伝説の女性ミシア・セールのことだ。名立たる天才芸術家たちのミューズでありパトロンでもあった彼女との出会いを通して、ココ・シャネルは芸術界そして社交界への扉を開いた。

「MISIA」の香りは、ミシア・セールの人物像ではなく、彼女との出会いによってもたらされたココ・シャネルの新たな人生のステージを描いている。

20世紀初頭に一世を風靡した「バレエ ・リュス」の絢爛な舞台、楽屋に漂うダンサーたちの高揚感を表現した香り。

そのレシピは、バイオレット、イリス、オリスルート、グラッセローズ、ターキッシュローズ、トンカビーン、ベンゾイン。

肌に乗せると、まずはバイオレットが匂い立つ。それを追いかけてローズが華やかに開花し、その狭間にイリスが立ちのぼる。華やぎと重みを併せ持つ花々の芳香を柔らかく包むようにパウダリー系の香りが行き来し、最後にはトンカビーンやベンゾインが肌に甘く残る。

きっと、これから長くともに生きていく、手放せない私自身のための香りだ。

Misia Sert in Venice by Horst P. Horst

Infinite Transformation

楽しいと感じられることをするのと、変化を避けて楽に留まるというのは、まったく別のことだ。

意識が変われば、見え方も、思考も、在り方も、行動も変わる。そしてまた、思いもよらず手放したり、壊れたり、離れたりする(そのように見える)こともある。

しかし、すべてはただ「変化」でしかない。

それは、常により最適な状態へと移行して、古い殻を脱皮していくようなものだ。

問題と解決策

人や社会の中に見える問題を、そのままの意識状態に留まりながら解決しようとして闘うのではなく、全く異なる次元(意識レイヤー)で自らの喜びを正直に生きることによって、解決策は自ずともたらされる。

問があれば、解も同時に存在する。

問題として見えるものを私が見つけたならば、解決策も既に私の中にあるのだ。しかし、私がその解決策を見出すためには、私が意識レイヤーを移行する必要がある。

問題と同じ意識レイヤーに留まりながら闘うことは、分離状態を強化する(問と解は同じところにあるのだが、それらを分離させる思考に執着してしまう)。それは結局、問題として見える状態にますますエネルギーを注いで加勢することとなる。

そうではなくて、自らがより無理なく、より快適に、より喜んで活きる方法へと移行する=意識レイヤーを移行することによって、自分の存在そのものが解決策となる。

分離して見える状態も、意識階層を変えて眺めてみれば、ひとつのものとして見えてくる。 ひとつものとして見えた時、私たちは既に「分離のない状態、解決された状態、問題のない状態」にある。

問題と闘うのではなく、解決策を探し出すのでもなく、意識状態の変化によって在り方や生き方や行動が変化した「私」こそがその解決策だ。

ポーランドのこどもの日に

ポーランドの「こどもの日」に大使館で催されるパーティーの中で、日本人役として劇に出演してもらえないかという連絡が入った。早速詳しい話を聴き、私は友人とともに着物を着て、子どもたちに折り紙を教えることになった。

依頼してくれたポーランド人役者の知人とは、あるオーディションで出会ってすぐに意気投合した。波長が合うとはこういうことを言うのだなと感じる出会いだった。

また、着物を持っている友人(昨秋、私にテレビドラマ出演の話をもたらしてくれたのは彼女だった)が快諾してくれたこともとても嬉しい。

報酬がいくらだとか、それをすればどうなるかとかではなく、「おもしろそう!楽しそう!」という感覚だけで動くのは本当に気持ちがいい。

この人と一緒に何かをしたい、何かおもしろいものを作りたい、といった喜びに基づく選択と行動は、いつも即座に満足をもたらしてくれる。

もちろん、必要な取り決めは確認しあうし、事務的なやり取りもきちんとする。

しかし、プロジェクトやビジネスの規模に関わらず、ベースになるのはいつだってそこに喜びと希望が感じれるかどうかだ。

そして、自分が喜びや満足を感じることは、相手や周囲に喜びと満足をもたらすための基本でもある。

さて、今回もまたおもしろいことになりそうだ。

 

通り雨と庭園の薔薇の花

フランティシュカーンスカー庭園(Františkánská zahrada)はプラハの街のまさに中心部にある。この小さな庭園はヴァーツラフ広場方面など何方向かへ通り抜けられるので、よく近道として利用するけれど、いつ訪ねても気持ちがいい。薔薇の花が満開を迎えるこの季節は特にいい。

変拍子な一日

今日はなんだか不思議な一日だった。

はじまりは午後の待ち合わせ。相方の新たな考えによって、当初の予定とはまったく異なる場所へ向かうことになった。そして、地下鉄の駅を降りる頃には我々の考えは更に変わり、ますます思いもよらぬところへ足を運ぶこととなった。

その後、何度かやってきた通り雨から逃れようとして地下鉄に乗り、またもや予定していなかった場所を訪ねた。

おかげで予想外に美味しい食事や、美しい光景とめぐり逢った。

また、今日は見知らぬ人とよく言葉を交わした。行きのバスでは大きな荷物を抱えた女性に席を譲ったが、帰りのバスでは初めて男性から席を譲られた。

地下鉄の駅で花を売る女性から声をかけられ、事情をうかがった後にオレンジ色の花をいただいてきた。

終始予定外に満ちたおもしろいリズムの一日だった。