創造そのものの力と流れ

たとえそれが想像の中であったとしても、創り出された「何か」はそれ自体の力で実現へと向かう。まるでそれ自体に命があるかのように、あらゆる意味で正しい時にしかるべくして実現されていく。

まるで「宇宙の流れ」とでも言いたくなるような、あまりに見事な物事の動きを眺めていると、私たちにできることは、創造そのものの命(流れ)を阻害せぬよう、余計な自我の思い込みや期待を超えて、ただひたすら信頼することだけなのではないかと思える。

意識がいつでも先にあるということと、時は未来から今へと流れているということは、どこかで繋がっているような気がしている。

新しい交流とこれまでの流れと

昨日は友人に誘われて、チェコ在住の日本人の方々とそのパートナーやお子さんたち、そのまたお友達などなどの集まりに参加した。

遅れて到着したところ、集合場所のペトシーンの丘(Petřín)には30人近くの人が集まっていてびっくり。普段の生活の中では全くと言っていいほど出逢わないけれど、やはり思っている以上に多くの日本人×チェコ人カップルがここに暮らしているのだなと改めて驚いた。

それぞれの移住のきっかけやパートナーとの出逢い、チェコでのお仕事や日々の生活、語学学校情報等々いろんな話が(日本語で!)できた貴重な時間。これからまた新たな交流が広がっていきそうでとても嬉しい。

 

昨日お会いした方の殆どがパートナーとの結婚や同居を機にチェコへ移住されたそうだが、私の場合はチェコに辿り着いた経緯から話すことになるので、尋ねられると説明が長くなる。

そうして話しているうちに自分でも、本当に予想を超える偶然の重なりに運ばれたのだなと実感する。

勿論、人それぞれに思いもよらぬ出逢いがあり、予想を超える展開があったのだろうと思う。

しかし、振り返るといつもすべての物事は然るべき時に起きていて、あらゆる出逢いは最善のタイミングでやってきた。他の選択肢を探ったこともあったけれど、いつも結局は目の前に現れた扉を開くしかなくて、そうして気づけば今に至っていた。

その時々に精一杯で、時にはあまりの展開の速さにへとへとになったりもするけれど、ふと気づけばいつでも最適としか思えないところに運ばれている。

いつもいつも「これまで」を振り返って思うのは、時というのはやはり未来から今へと流れているのではないかということだ。

自らの感情と感覚を尊重すること=命を尊重すること

当事者が嫌だ、辛い、などと確かに感じているのに、「仕方ないでしょう」と捻じ伏せたり、「それもありがたいことだ(だから感謝しなさい)」と押しつけたり、「他の人たちも我慢している」などと話をすり替えたりするのは、当事者の存在と命よりも、自分(自分たち)の頭の都合を優先する行為だ。

そのような行為をしてしまうのは、その人もまた誰かの都合を押しつけられ、自分の感情や感覚を捻じ伏せてきたからなのだろう。

そこに確かにある感覚や感情を、都合によって「ないもの」として捻じ伏せていると、本来の感覚や感情が麻痺してしまう。そして、都合だけが回路化されていく。

このことを考えていて思い出したのは、子どもが泣くのを見ているのが辛いからといって、親が「泣かないで」「泣いちゃだめ」などというのは、その子ども本人の感情を認めずに否定して、コントロールしようとする親の勝手な都合であるという話だ。

そして、それは親子だけでなくあらゆる関係の中で起き得るし、一人の人が自分の中で繰り返していることもある。

悲しい、辛い、嫌だ、と泣いている自分を「それでも感謝しなくては」「でも我慢するしかない」などと頭が捻じ伏せるというパターンはないだろうか。

 

自分が今感じていることを「私はこう感じている」とありのまま認めて、今の自分の感情をきちんと自分で認識することは、自分を尊重することのはじまりだ。

感情も感覚も、確かに「ある」ものを決して「ない」ものにはしないこと。

そうして自分の感覚と感情=生きているということ=命を尊重することができれば、他者の感覚と感情=命を尊重することもできる。

自分がどう感じているかということと、他者がどのにように感じているかは、個別のものだと分かると同時に、そのどちらをも対等に認めて尊重することができる。

Zlatá Praha – 黄金の街プラハ

税務署での手続きが思っていた以上に時間がかかるとのことで、その後にと考えていた予定はキャンセルせざるを得なくなった。そうしてぽっかり時間があいたので、ふと思い立って、まだ登ったことのないペトシーン展望タワー(Petřínská rozhledna)へ向かうことにした。

今日は暑くもなく寒くもなく快適な一日。気づけばまた10㎞近く歩いていた。

あちこちでさまざまな花が満開を迎えていて、色と香りどちらも愉しい。

実は私は高所恐怖症なので、塔の外側に取り付けられたむき出しの階段を登るのはなかなか大変だった。恐怖を紛らわせるためにぶつぶつと少し大きめの独り言を呟きながらなんとか展望室に辿り着くと、世界はちょうどゴールデンアワーを迎えていた。

夕陽に照らされるプラハ城。

黄金色に輝く街並み。

「黄金の街」の異名を持つプラハが金色に輝く様はあまりに美しく、高所にいることへの恐怖もすっかり吹き飛んでしまい、ひたすら窓の外を眺めていた。

最後は帰りのケーブルカーから眺めた景色。
そういえば、今日は思いがけずいろんな乗り物に乗った一日でもあった。

税務署でパーテルノステルに遭遇

プラハ1区の税務署にてパーテルノステル(循環式エレベーター)を発見。ルチェルナ宮殿(Palác Lucerna)やプラハ市役所など、プラハには現在も稼働中のパーテルノステルがまだまだ残っていることは知っていたけれど、思わぬところでの遭遇に少しはしゃいでしまった。

もちろん乗ってみた。

ちょうど降りたところで知らない男性が笑顔と目が合ったので、「It was my first experience!」と言ったところ「Great!」と返してくれて、さもおかしそうに笑いはじめた。静かな税務署で密かにはしゃぐアジア人、きっとおもしろい存在だっただろう。

自分を生きる前提

喜びも悲しみも、怒りや憤りも、安らぎも愛しさも、不安や脅威も、誰かや何かがもたらすのではなく、自分の中からやってくる。そう認識できるようになると、世界の見え方は様変わりする。

感情も、感覚も、思いも、外からではなく、内からやってくるものである。

体が感じていること、体の中から沸き起こり、体の内側からやってくるものを、頭でこねくり回して理屈化する前に、それが「ある」ということをしっかり認めて感じることこそ、自分を尊重する基本だ。

何かしらの感情や思いを自分の中に感じたなら、それは、誰かや何かが「感じさせた」のではなくて、「私が今そう感じている」のだということを認識していく。

そうして自分の感覚や感情を殺さずに、きちんと受け入れて繋がること、すなわち自分の体、自分の心、自分自身を受け入れて繋がることだ。

自分を受け入れ、自分に繋がると書いたけれど、実際には常に繋がっているし、常に受け入れられているひとつのものである。それを、私たちは頭で分離して考え、時には制御する側とされる側(制御しなければ暴走するという思い込み)として切り離してしまう。

しかし、いつでも命(体、心)は頭より先にある。
心とは、頭ではなく体であり、心は体の中に流れる命の動きに近い。

自分の中に流れる命(体、心)をしっかりと感じて、それに従って生きることは、頭が作り出すあらゆる妄想(思い込みによる不安や恐怖)をはるかに超える安心の地平を教えてくれる。

それこそが、自分を生きるということの前提だろう。

チェコの国民的喜劇Jára Cimrmanを英語で観る

 

今日はいよいよ念願のJára Cimrman(ヤーラ・ツィムルマン)劇場へ出向いた。

ヤーラ・ツィムルマンはチェコのモンティ・パイソンとも言われる国民的喜劇だ。そして、チェコのレオナルド・ダ・ヴィンチとも呼ばれる天才ツィムルマンは、2005年には「最も偉大なチェコ人」にも選ばれた有名人であり、チェコで彼のことを知らない人はごくわずかだろう。

本日私が観劇したのは英語翻訳版のCimrman English Theatre。英語話者の外国人役者陣による舞台で、彼らはなんと昨年にはアメリカツアーも決行した。

さて、そんなツィムルマン初体験、これが期待以上に面白かった!約2時間の劇中はあちこちから笑い声が絶えず、私も何度も声を上げて笑ってしまった。最後には、満席の劇場も大満足の大拍手。

あるナチス党員がチェコ人のことを「laughing beasts」と呼んだという逸話があるが、チェコの人々がユーモア好きなのは確かだと思う。数々の苦難と抑圧をすらユーモアで乗り越えてきた歴史故だろうか。

悪政もスキャンダルも身近な苦労も、即座にジョーク(時には皮肉たっぷりの)に変えてしまうそのセンスには脱帽する。

「ヤーラ・ツィムルマン」にはそんなチェコの人々のユーモアセンスがこれでもかと溢れている。

この面白さと楽しさを、ぜひ多くの人に味わってもらいたい。英語版は5月18日、6月22日にも上演される。秋には新プログラムでの上演も予定されているらしい。

私自身、次回がとても楽しみだ。それまでに、ツィムルマンについて更に勉強しておこう。

 

英語版「Jára Cimrman(ヤーラ・ツィムルマン)」の予告編。

ひとくくりにしないことの大切さ

先日ある人から「チェコ人のパートナーは日本人男性とどう違うか」と質問されて少し考えた。そして、私と相方の関係は個々の感覚や考えに基づくものであり、そこには生まれ育った国や母語の違いはあるけれど、それを「〇〇人」という括りに置き換えることはできないと話した。

国籍に関わらず、人はみなそれぞれであるということを改めて思う。

私が実際に出逢った人々や、周囲の人々から、見たり、聞いたり、感じたりしたことなら話せるけれど、「〇〇人は~」という括りで何かを確信的に語ることなど決してできない。誰しも過去から現在まですべての「〇〇人」を知ることはできないし、統計的な数字がすべての人にあてはまるわけでもない。

国というものについても同じくで、たとえば「現在の日本の政権は」という主語で自分の知ることを話すことはできるけれど、「日本は」という主語ですべてをひとくくりにして語ることはできないと思っている。

他にも、「男は」「女は」といった社会的あるいは世間的分類や属性によって、人や物事をひとくくりにしないように気をつけている。なぜかというと、そういう風に語ることによって、自分自身がそう思いこんでしまうのは避けたいからだ。

自分が語る言葉は、他の誰よりも自分自身に最も影響する。だから、一部だけの情報や憶測による思い込みではなく、自分が実際に体験したことや、自分が本当に感じたこと、自分でも本当に考えたことを語っていたい。