自己信頼とビジョンのエネルギー

私は、困難なように見える状況は、自分のビジョンをさらに信頼するためのプロセスだと思っている。

描いたビジョンは大抵「思い通り」をはるかに超えて思わぬ形で実現するから、もしも願いや望みから遠ざかるように見える展開になると「これはますます自己信頼を促されているのだな」と感じる。

描いたビジョン、真の望みは、それ自体が「実現に向かう力」を有している。そして、その動きや速さは私たちの思考を超えている。

ビジョンは「頭が(過去の経験などから)予測する展開」をはるかに超えて、あらゆる可能性の扉を引き寄せ、やがて必ず実現される。

だから、ビジョンとプロセスを混同せずに、安心してひとつひとつの「今」に専念していればいい。

ビジョンそのものを信頼し、それがもたらす流れと共にあれば、「思い通り」や「予測」を超えてやってくるあらゆる展開がその実現へと運んでくれる。

家族の問題など、あらゆる関係における困難(に見える状況)も同じだ。最終的に本当に望む状態=たとえば「全てのメンバーがそれぞれ自らの真実を正直に生きて、それぞれが自ら満たされた状態」を描いたならば、そのビジョンをただ信頼して、あとは「今ここの自分」に専念していればいい。

ビジネスだって何だってやはり同じことだ。ビジョンは、それそのものの力によって、あらゆる可能性を手繰り寄せながら私たちを運んでいる。そうして必要は必ずやってくるし、不要になれば自ずと離れていく。

今ここの自分に専念するとは、今の自分の感覚や思いを正直に認めて、それを今ここで素直に行動すること。今の自分が本当にしたいことをし、今できることに取り組んでいくこと。

それだけで十分だし、むしろそれしかない。それしか出来ることはないし、それだけが必要とも言える。

自己(自らのビジョン)への信頼を何度でも確認しつつ、常に今に専念すること。このとてもシンプルなことに意識的であること。

 

無題

まだお会いしたばかりなのに、こんなにも早くお見送りする日が来るなんてと思うけれど、人との交わりも、その存在も、すべてはいつだって「今」しかないということを改めて思い知る。

「ありがとう」も「ごめんなさい」も「あなたが大切です」も「愛しています」も、思いは今すぐ、躊躇せずに、何度でも伝えた方がいい。そのチャンスは「今」しかないのだ、本当に。だから素直に、正直に。

自我の物語にとらわれて、自分の本当の感情と思いを表さずに(行動せずに)いることが、どれほどの後悔と苦しみとなってその人自身を縛ることか。

どうか正直に許しと助けを求められますように。
素直に愛と感謝を表せますように。
いつも安心でありますように。

ふたたび自己受容について

私と相方は共に機能不全家庭から脱出した者同士だと言える。それぞれ家族にアルコールやギャンブル等の依存者がいる(いた)が、その存在を客観視する視点が共通している。

自我が作り出す「ドラマ」や、家族という連鎖しやすい「物語」から抜け出すと、依存(そして共依存)のからくりがはっきりと見えてくる。

互いの家族の状態や変化を眺めながら、依存の根底にあるのもまたSelf-acceptance(自己受容)の欠如なのだなと改めて思う。

家族の中の依存者たちに共通するのは、他者とのコミュニケーションや社会活動が不得手で抑圧傾向にある点だが、それは彼らがうまく自己受容できていないからなのだろう。

彼らは他者の言動や出来事をあるがままに受け止めることができない。「あいつが私を責めている」「奴らが私をダメにする」等、彼らが囚われている被害妄想的認知の歪みは、彼ら自身の内側にある分裂と否定を映し出している。彼ら自身があるがままの自分を受け入れられず、自分を責めつづけているのだ。

そして、依存者はその被害妄想的認知の歪みに周囲を巻き込もうとする。

彼らの「物語」に呑み込まれないでいるためには精神的な自立が必要だ。その根底にあるのが自己受容であり、自己受容によって培われた健康な自尊心は自分と他者との境界を明確にし、あらゆる「物語」から覚醒させてくれる。

そのために大切なのは、自分の本当の感情を決して殺さないことだ。自分が感じていることを頭で捻じ伏せることなく、しっかりとそれを認めて表すこと。相手に対してだけでなく、自分の耳にも言葉にして聞かせてあげるといい。

 

相方と初めて二人で語り合った日に、「自由」について深く共鳴したことを思い出す。

自らが常に自由であること、そして他者も自由にすること。何にも囚われず、また他者を囚われにはしない(解放する)こと。この価値観は、家族の中の依存者や「囚われの物語」を観察してきた中で培われたのかもしれない。

ありのままの自分を受け入れるということ

対話の流れの中で、相方とSelf-acceptance(自己受容)について話したときに、彼は「自分の弱点を自分で認めたら、人からそれを指摘されても腹が立たないから、そうするようになったよ。」と言った。

そして「自分のダメなところや嫌なところも自分で受け入れたら、結果的に他者からも指摘されなくなるよね。」と頷きあった。

私たちは無限大だもの、どこまでだって受け入れられるし、いつでも、いつからでも、どのようにだって変化できる。何かが受け入れ難くて苦しんでいる自分だって、そのまま認めることができる。

そうして深く、豊かに、広がっていく。

映画のエキストラという新しい経験

アメリカ映画のエキストラ募集情報が急に飛び込んできた。
今回はFBIの職員役らしい。

衣装合わせのために初めて訪ねたバランドフスタジオはあまりに広い上に外灯も標識も少なくて、同じくエキストラとして参加する友人がたまたま見つけてくれなければ確実に迷っていただろう。

水星が逆行し始めてから、以前はあまり連絡がなかったエージェントから頻繁に映画やテレビのエキストラ募集情報が届くようになった。年明け以降は私自身しばらくほかのことに夢中だったけれど、最近はまたオーディションに応募したり参加したりしている。これがなかなか愉しい。

現場にはさまざまな国からチェコに来た人たち(またはその子孫)が集まるので、彼らと話をするだけでもおもしろい。エキストラから始めて役者になった人と親しくなってレアな情報をシェアしてもらったりなど、人との出逢いから世界が広がっていくのも楽しい。

どうなるかは分からなくても、行動してみればいつも何かしら得るものがある。オーディションに通過しなくても、そこで出会った新しいエージェント担当者から別の情報が得られたり、たまたま一緒になった人と後々良い交友関係を築けたり。

動いた先には常に予想外の可能性が広がっている。

A walk in Prokop Valley

今日からサマータイムに切り替わったのだが、時間を確認するたびに軽く混乱している。15時を過ぎてもまだまだ陽が高いことに驚き、日没時刻が19時半近くになったことに驚いた(サマータイムなのだからすべて当たり前)。

午後3時を過ぎてからみるみる晴れて暖かくなったので、久しぶりに近所の渓谷まで出かけた。春霞の景色を愉しみながら、雪解けのぬかるみを避けてあちらこちらへ遠回りするうちに、気づけば4時間も歩いていた。

いつもの景色にも春の気配。

渓谷の中の大好きな木。いつもはここから森を抜けて紀元前2500年~3000年前の要塞跡という高台に登るのだが、今日は地面がまだかなりぬかるんでいたので、もうしばらく待つことにした。

 

THE NAGANO TAPES

1998年に開催された長野冬季オリンピックで、単独国家として初の金メダルを獲得したチェコのアイスホッケーチームを追ったドキュメンタリームービーを観た。

NHLのスタープレーヤーが勢揃いした強豪アメリカ、カナダに連勝し、最後にはロシアを抑えて優勝したチェコチームの栄光が、民主化革命を経た独立後のチェコにどれほど大きな希望をもたらしたかがよく伝わる。

以前からヤロミール・ヤーグルやドミニク・ハシェクの名はよく耳にしていたけれど、これを観てアイスホッケーも彼らのこともすっかり大好きになってしまった。

0対0のまま迎えた第3ピリオド、金メダル獲得への決勝点を決めたのはペトル・スヴォボダ。1984年に西側諸国へ亡命して非国民扱いを受けたこともあった彼は、後に数々の名選手たちを北米へと導いたそうだ。スボヴォダ(Svoboda)とはチェコ語で「自由」の意味。

なんとも象徴的な最終試合だった。

こちらのサイトで全編日本語字幕付きで見ることができます。
THE NAGANO TAPES | FIVE RINGS FILMS

 

何者でもないという安らぎ

私たちにはいつも様々な立場や肩書きがついてまわるし、気づけば何かしらの役割を担っている。そういった「関係の中にある私」は、時と場によって常に移り変わる。

しかし、その根底にある「何者でもないただの此(私)」は、いくつになろうと、どこで何をしていようと、変わることはない。

常に移り変わる立場や役割などの「関係の中の私」が真の自分だと思い込んでいると、変化は時に自分を消滅させる恐ろしいものとして感じられるだろう。

しかし、その根底にある常に変わらぬ「何者でもない私」を知っていれば、どんな変化も受け入れて、何度でも生まれ変わることができるだろう。

何者でもないという根底に還ることは、私自身に還ることであり、命の流れに還ることでもある。それは、あらゆる物理的条件を超える無限の安らぎ。

宇宙の流れ、命の流れ

昨日会っていた人と「二年前が既に前世のようだ」などと話していたのだが、我々は出逢った頃にも「前世のよう」という表現を用いて話をしていたなと思い出した。

一つの人生の中にいくつものフェーズがあり、私たちは何度も生まれ変わり続けている。「今」の中にあらゆる時があるのだから、きっと当たり前なんだろう。

意識が生まれ変わり、フェーズが変わると、人や場との関係も変化する。自ずと離れていく人や、去ることになる場もあれば、不思議と繋ががりつづける人もいる。物理的な条件を超えて共振する人や場とは、どれだけ生まれ変わっても変わらず響きあっているし、たとえ一時離れてもまた繋がる時がある。

あらゆる物理的条件は大したことではないのだ。
それらは常に移り変わる。

いつでもその時々の今にふさわしい場に導かれ、その時々に必要な人や出来事に出逢っていく。これは宇宙の流れなのか、それとも命の流れなのかはわからないが、私という小さな思考を超えた大きな大きな流れにいつも運ばれている。

個を超えて響く夢

『神話とは公共の夢であり、夢は個人の神話である。』とジョーゼフ・キャンベルは言った。『一人で見る夢はただの夢、みんなで見る夢は現実になる。』とはオノ・ヨーコの言葉だ。

 

昨夜は久々の会食で、今とこれからのビジョンについては勿論、私たちが死んだ後にも残る夢について語りあった。

自分が何かを獲得するためだけでなく、私を超えて共鳴し、共有され、私が死んだ後にも続くような夢を描いて自らをそこに投じていく。そう想像するだけでとんでもなくワクワクする。

 

ジョーゼフ・キャンベルは『あなたの私的な神話である夢が、あなたを取り巻く社会の夢と一致するなら、あなたはその社会とよくあっているということです。』とも言っている。

これは逆に言えば、自分の描く夢と周囲(社会)のそれが一致しないなら、正しい居場所にいないか、または真に活き活きと望むことではない何かを「これが自分の夢である」と思いこんでいるということだろう。

夢=ビジョンは自ずと共振する。それは、頭が考える理屈や段取りや条件を超えて響きあっていく。実現したい夢があるなら、発信して、行動して、今ここにそれを生きることだ。そうすれば、そこに共振する人々や物事、機会と必ず出逢っていく。

自分の夢と周囲(社会)の夢とが一致しない場所にいることに気づいたら、そこで不毛な闘いを挑むよりも、自ら移動すればいい。移動してもなお不一致が生じるなら、それは描いているのが「本当の夢」ではないということだろう。もしそうならば、自分が真に夢中になれることを探求することだ。

さらにジョーゼフ・キャンベルの言葉を引用すると、彼は『もし、あなたの目の前の道がはっきりと見えるなら、それはおそらく誰か他の人の道です。』とも言っている。あなたの道は、いつでも今まさにあなたの足元で作られているということだ。

 

最後にジョーゼフ・キャンベルの最も有名な言葉を引用する。

“Follow your bliss and the universe will open doors for you where there were only walls.”

『あなたの無上の喜びを追求しなさい。そうすれば、宇宙はあなたのために、壁でしかなかった場所に扉を開くだろう。』