自我の物語を意識化する

「私の物語」つまり自我の物語を構成するために、私たちは無自覚に外側にあるすべてを巻き込もうとし、他者という存在を利用する。事情、環境、状況、社会、過去、経歴、関係、立場・・・そういうあらゆる「私の物語」とは、自らの肉体を含むすべての事実から目をそらしつづけるための言い訳である。

過去の環境やあらゆる経験、それによって傷ついたとか、何かを得たとかいう思いもまた「物語」だ。

これは、物語を生きるのが良いか悪いかという話ではない。それが「物語」だということを意識化しているかいないかによって、現実は全く異なるのだ。

事実は時に自我にとって都合が悪く、受け入れがたいものなので、そこから目をそらすために私たち(自我)は「言い訳」や「理由」を繰り返し積み重ねる。

そうして無自覚なまま「私の物語」を構成しつづける人は、気付かぬままに周囲を利用し、巻き込もうとする。同じように「私の物語」を構築しつづける誰かとの間に互いの必要が合致すると、ともにそれを延々と繰り返すことができる場合もある。

しかし、個人的には誰かの「物語」に巻き込まれるのは居心地のいいものではないので、そういう傾向に気づいた時には、その人から距離を置くことにしている。

過去を振り返ってみると、私もまた「受け入れがたい事実から目をそむけるため」に、たくさんの言い訳(環境、状況、社会、関係、経験、あらゆる物語)を作りつづけ、ドラマを作りつづけていた。

しかしまたそんな中で、時に「お前は事実を見ていない」という真実を突きつける存在に出会うこともあった。そうして痛いところをつかれたり、はたまた「物語」を助長してくれる人が周囲にいなくなったりして、一人になってようやく気付き、目が覚めた気もする。

「物語」が破綻しない限り、自分が無自覚にそれを繰り返し積み重ねていることには気づかないものだ。とはいえ、何かから目をそむけるための「物語」はいつかは必ず破綻する。

破綻したときに見えたものが事実であり、そこからようやく本当に始まることがある。始まるのは、自分が本当にしたいことかもしれないし、本当に求めていたことかもしれない。

そうして目が覚めたなら、今ここに専念して、放っておいても金がもらえなくてもなぜかやってしまうことにひたすら夢中になって没頭していればいい。

現れてしまうもの

究極的に言えば、表現とは「表現しよう」という意図を超えて現れ出てしまうもの。「このような方法で」「こういう形で」という思考や工夫よりも先にやってしまっていること。いつでも本質は自ずと顕れてしまっているのではないか。

言葉を含め「現れてしまう」「現してしまう」方法や形というのは、最終的には単なる好みのようなものだろう。

気づくよりも先に現れ出てしまう形なきものと、言葉を含むあらゆる形。どちらか一方だけに拘りすぎると、滞ってめぐりが悪くなるか、破綻し破滅してしまう。 形は意識の影のようなものではあるが、影を時々振り返ることで、本当は形などない「私」を実感しているのかもしれない。

フェルナンド・ペソアの命日に

今日11月30日はポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの命日だ。

2014年9月のある日。なかなか眠れぬ曖昧とした意識の中に不意にフェルナンド・ペソアが現れた。彼は私をついと導き、そして何かを託した。書き留めなければという衝動が沸き起こったが、朦朧としたまま興奮に呑まれて眠りに落ちた。その後に見たのは、海に浮かぶ船の夢だった。

その2ヶ月後、ペソアの影を追うようにポルトガルへ向かったのだった。

リスボンにあるフェルナンド・ペソア博物館(Casa-Museu Fernando Pessoa)のことを思い出す。死後発見されたトランクの中の大量の草稿など、ペソアが暮らした部屋が再現されている。建物の入口には、生計を立てられるほど占星術に詳しかったという彼のホロスコープが彫られている。

ペソアが足繁く通ったというカフェ、ア・ブラジレイラ(Café A Brasileira)へも連れて行ってもらった。現地に暮らす友人に案内してもらいながら、足早に歩いて回ったリスボン。次に訪れる際にはもっと長く滞在して、ペソアが生まれ、暮らし、死んだ街をゆっくり歩こうと思う。

『僕らはみな ふたつの生を生きている
ひとつは生きられた生
もうひとつは思考された生
ほんとうの唯一の生は
本物と偽物のあいだに
分かたれた生

しかし このふたつの生の どちらが本物で
どちらが偽物なのか それを説明できる者は
この世には 誰ひとりとしていない
それでぼくらは 自分の生が
思考される生であるかのように
生きることになる』

ーフェルナンド・ペソア

塔の上から

水曜日の午後、用事を終えた後もまだたっぷり時間があったので、ふと思い立って新市街市庁舎塔に登ってみることにした。

塔の高さは約42m。ヤン・フスが火刑に処せられた後、1419年に起きた第一次窓外放擲事件では、ここから落とされた人々がいたのか・・・などと考える。14世紀後半、カレル4世の頃に建てられたというこの建物ひとつの中に、いったい幾人の思いが折り重なっているのだろう。

夕暮れ近くになってもまだ暖かかったので、新市街市庁舎を出た後もさら歩いた。聖キリル&聖メトディウス正教大聖堂(Chrám svatých Cyrila a Metoděje)の前を通り過ぎながら、先日機内で見た映画「The Man with the Iron Heart」を思い返す。

ヴルタヴァ川も徐々に冬の風情。
思いもよらぬ流れによって初めてこの街へ運ばれてから、もうすぐ二年になる。

 

透きとおる音の中で

昨夜はルドルフィヌム(Rudolfinum)で開催されたDavid Frayのコンサートへ出かけた。普段はクラシック音楽など聴くことのないパートナーだが、私が大好きなピアニストだということでチケットを用意してくれたのだ。

初めて生で体験した彼の演奏は想像以上にデリケートで、それでいてみずみずしく色鮮やか。とても親密なのに不思議と広がりのある澄んだ音色は、心を柔らかに震わせ揺さぶり、たくさんの美しい情景を見させてくれた。

透明な色彩感に溢れる優美な(実にデリケートなのに素晴らしく饒舌なのだ)音色に聴き入りながら、ふと生きたかった世界を思い出したような気がした。ずいぶん昔にあきらめて、すっかり埃をかぶってしまった夢を思い出したかのような、奇妙な懐かしさと仄かな悲しみ。

内側でいろんなことが起きているが、まだそれらは言葉にならない。コンサートの最中もたくさんのことが去来し、さまざまな思いが浮かんでは流れていった。無理に言葉にしようとせず、そのままにしておこう。

望むとおりに

ドバイへ向かう飛行機の中で不思議にリアルな夢を見た。あまりにリアルだったので、目覚めてすぐに書き留めた。夢の中の人物が私に投げかけた言葉と笑顔、そして私が感じた安心と喜びの感触が今もはっきりと残っている。

夢の中の人物は「私がすべてしっかりサポートするから、君は〇〇として生きる腹を括りなよ。」と言っていた。私の中にいる存在が、私自身にそう言ったのだろう。

腹をくくれば照準が定まり、照準が定まれば今取るべき行動が明らかになる。必要な出会いや経験が必ずやってくるのは、思考を超えたところで本当は何が必要かを知っているからだ。

「思い通り」という枠を超えて、すべては望み通りになっていく。

道元の言葉

物事の流れも、関係のバランスも、肉体の状態も、あらゆるエネルギーのめぐりが滞る時というのは、無自覚のうちに自分(の思考)にとらわれて、自分に拘ってしまっているのだろう。

この世のあらゆる物事は、生(始まり、実現、成立、完成)と死(終わり、破綻、破壊、解体)を延々とくりかえしている。転々と変化しつづけるカタチと、そこに流れる永久不滅なカタチならぬもの。

自分にとらわれ、自分に拘っていると、変化し続けるカタチの中に流れる「永遠不滅なカタチなきもの」こそが本質だということが見えなくなってしまうのだ。

『仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。』という道元の言葉が、ふたたび頭の中で響きづけているここ数日。

自分を生きるとは、自分を忘れ、脱却するほどに今に専念すること。そうして正直に素直に、本来の流れを留めることなく、自分にこだわって滞ることなく、あるがままに在ることなのだろう。

豊かさとは

私は12室蠍座に月があるのだが、今はその真上を金星が通過しており、さらに木星がゆっくりと近づいている。そんな中で迎えた蠍座の新月。有形無形あらゆる「豊かさ」の感覚がバージョンアップしている感じだ。

目に見えるものも見えないものも、足りないことはなく、余ることもなく、延々とめぐりつづけている。そんな無限大の豊かさの中で、多種多様な形を通してそれを垣間見ては、様々に味わっている。

足るも足らぬも思考が作り出す判断(幻想)であり、それとは異なる次元ですべてはいつもただただ流れている。

「豊かさ」とは、無限が見せる無数の形のことかもしれない。そして、それが現れる空間(意識)もまた果てしなく豊かだ。

みな望まれてやってくる

高祖父母の両親にまで遡る戸籍(江戸時代!)を眺めながら、不意にすべての先祖が自分であるかのような感覚に陥った。もちろんみなそれぞれ固有の肉体をして生きた個別の存在だが、同時に、彼等はみな「私」の現れのひとつであっただけのように感じたのだ。

数多の個をして現れるひとつのもの。
すべての祖先が私であり、同時に、私は私であって私でない。

祖母に呼ばれるかのように帰国し、祖母の死を通してこれまで見えなかったものをたくさん見させてもらっている。まるで先祖が私の再生と新たな始まりをぐいぐい後押ししているみたいだ。不思議な、しかし、とてつもなく強大な見えない力を感じている。

あらゆる存在は望まれて地上にやってくるのだと腑に落ちる。それは、個の期待や望みを超える果てしなく大きな流れの力であり、自我の意図などはるかに超えた宇宙の営みそのもの。

生と死と愛と財と

祖母の死をきっかけに、既に他界した家族や親族について思い、語り、新たに知ることがたくさんあった。高祖父母の両親にまで遡る戸籍を見る必要に迫られ、これまで名も知らなかった先祖について知ることとなり、なんとも不思議な感慨を覚えている。

蠍座に星が集まる中、蠍座で新月を迎える前に、とても蠍座的と言える体験を味わっている。

今日は一日中、他界した祖母の銀行口座や生命保険、年金等の手続きに走り回ったのだが、金額に関わらず、相続はとにかく手間がかかるということがよく分かった。当たり前のことではあるけれど、実際に様々な手続きを経験できたのは良かったと思う。

これもまた、蠍座的体験だ。

五親等遡るだけで、想像以上に多くの存在に行きつく。ある男と女から子が生まれ、その子がまた子を作り、さらに子の子が生まれていく。そんな血脈の末端に今自分が存在しているということに、感動や感情移入とは異なる不思議な思いを抱いている。

人と人の営みの中を、財というエネルギーがさまざまに形を変えながら流れている。無数に繰り返される生と死が流れとなって、愛と性が金という形を伴ってめぐり続けている。すべてはエネルギーなのだということに、理屈を超える納得を覚える。

終わりなどない中で、無限の生と死が繰り返されている。永遠の内にある無数の一瞬。私というゆらぎは永遠にめぐるエネルギーの現れで、それは時に愛と呼ばれることもある。