自分に期待する

期待は、自分自身にこそかけるものだ。
しかし、私たちはつい自分の外側に期待をしては、時に裏切られたような気分に陥る。

誰かや何かに「何をしてくれるか、何を与えてくれるか」と期待するのではなく、あらゆる経験をきっかけに「自分がどのように変化し、どんな発見をするか」に期待するのだ。

そうした自分から始まる在り方は、出来事を俯瞰的に眺めながらも、主体的に選択し、積極的に味わうことを促してくれる。

どんどん自分に期待していこう。
そうして、どんどん新しい自分に出逢っていくのがいい。
一瞬先の自分などわからないし、そこにはいつも無限の可能性が宿っている。

ドラマ初出演 ロケ二日目

本日は、二度目のテレビ撮影だった。18日の撮影に引き続いてのエキストラ出演だ。

昨日から丸一日続いた嵐も通り過ぎたようで、家を出る頃には雨もあがり、青空が見えてきた。友人と二人で通勤時間帯の地下鉄に乗り込み、指定されたとおりにヴルタヴァ川のシュトゥヴァニツェ島へと向かった。今回もやはり、詳細な撮影内容については何も聞かされていない。

キャスティング担当の女性に案内されるがまま車に乗りこみ、さらに別の場所へと移動する。到着した対岸のガソリンスタンドにはトレーラーが停車しており、荷台には撮影用のタクシーが載せられていて、撮影クルーは既にスタンバイしていた。まずは撮影前のチェックのため、主演俳優陣とともにトレーラー上のタクシーに乗り込んで早々に出発。

トレーラーに載ったタクシーの後部シートに揺られて、窓の外の風景を眺めているうちに、なんだか本当に「初めて訪ねたプラハでタクシーに乗り、景色を楽しむ日本人観光客」のような気分になってきた。

ディレクターからは今回も「カーチェイスに巻き込まれたけれど、それを楽しんでエキサイトしている日本人観光客になりきってね」と言われたので、これでいいはずだ。カメラマンからは「後部シートの真ん中に寄って、正面から撮影する2台のカメラを見てね」と指示を受ける。思っていた以上にはっきりとカメラに映るのかもしれない。

タクシーの外側から撮影するため、エキストラである私たちもマイクを装着。さて、いよいよ本番である。助手席に乗った主演俳優がパチンと手を叩くと同時に演技と撮影が始まった。走行するトレーラーの上に載ったタクシーが左右にゆさぶられ、まるで本当に猛スピードで走る車の中にいるみたいだ。運転手役の俳優の演技も、実際にカーチェイスの真っ最中であるかのように緊迫している。

そんな場の空気にすっかり興奮した私たちは、理由もなくこみ上げる笑いとともに、思いつく限りの日本語や英語、片言のチェコ語を並べ立てた。

途中、何度か俳優陣がタクシーから降りて映像をチェックする。同じシーンを4回ほど撮影しただろうか。さらにもう1テイクとなったところで、晴れていた空にまた雲が広がり、大粒の雨が降り始めた。屋根のないトレーラーの前方に乗った撮影クルーはびしょ濡れである。雨と寒風にさらされながらも、大切なカメラを保護するカメラマンの姿を見つめながら、これもまた時に過酷な仕事だなあと感心してしまった。

結局、ここで撮影は終了。ディレクターをはじめスタッフの方々からも、俳優陣からも笑顔で労われて、終始とにかく気分よく、かなりリラックスして「日本人エキストラ」を務めることができた。

ロケ終了後にお願いをして、写真を撮らせてもらった。今回ご一緒させていただいた俳優のLukáš Příkazkýさんと、Leoš Nohaさん。チェコの映画やテレビドラマへの出演はもちろん、ドイツやスロバキアなど他国の映画や、舞台でも活躍されるお二人。

私たちがエキストラ出演したのは、チェコ最大のインターネットTV、Stream.cz (一日に20万以上の視聴者数があるらしい)で放送される『Štafl』というコメディードラマだそうだ。プラハのぼったくりタクシーをテーマにしたドキュメンタリー映画『Prague vs Money』の作者であるJanek Rubešの著書が原作で、やはりプラハのタクシーにまつわるドラマシリーズだとか。

「放送は来春、おそらく4月頃になるよ」とディレクターから直接教えてもらった。これからまだまだたくさんの撮影と編集作業があり、年明けからはスタジオ撮影に入るらしい。

思いがけない愉快な体験だったが、とにかくすべてが楽しかった。こんなにも素敵な経験をもたらしてくれた友人には、本当に感謝している。また機会があればぜひ参加したいし、自らも探していくつもりだ。プラハにはキャスティングエージェントがたくさんあるようだし(実際、ベラルーシ人の友人も過去にCMに出演したと話していた)、近々登録に出向いてみよう。

 

 

タロットに呼ばれて

チェコに来てからはセッションの機会も減ったし、いよいよ看板を下ろす時かなどと思っていた矢先に、先日お世話になった美容師さんから、タロットリーディングに興味がある方がいらっしゃるという連絡をいただいた。

そしてまた今日は、ふとしたことからタロットカードについての会話と考察が始まり、少しばかり久々にカードを眺めている。

このように、忘れかけた頃に何かしらきっかけが訪れては、ふたたびタロットカードに触れるということが、この一年ほど続いている。しばらく時を隔てて眺め直すと、慣れ親しんでいたはずのカードが新しい示唆やメッセージを投げかけてくる。そうして結局、またカードとの新たに対話がはじまるのだ。

私にとって、タロットカードは異界への扉のようなものだ。それはいつも意識の旅をうながし、時に思いもよらないところへ連れて行く。

久々に自分のためにカードをシャッフルしていたら、「9 隠者」が飛び出した。その後に並べた10枚からは、「担う実務は多そうだし、責務も大きそうだけれど、私本人(のカード)は一から積み重ねる覚悟ができており、多少時間はかかっても、結果的には思わぬブレイクスルーと開拓が待っているだろう」と読み取れた。

こつこつ地道に積み上げていくしかない。常に今に専念しているうちに、気づけば大きな開拓を成し遂げていたと気づくことになるのだろう。では、具体的には何をするのだろう?

しばらくして、ふと思い出した。まだ、プラハと日本を行き来しはじめたばかりの頃に、ゴーレムを造ったといわれるユダヤ教指導者ラビ・レーヴや、天文学者にして占星術師でもあったティコ・ブラーエ、プラハ城の黄金小路に暮らした占い師マダム・ド・テベ、有名な錬金術師エドワード・ケリーなどの足跡をたどり、ある宣言をして回ったのだった。

そんなことを考えていたら、更に別の方から「プラハ市内でタロットカードを買えるお店を知っていますか?」という質問が届いた。こうも重なると、なんだかタロットカードから「ほら、そろそろ戻る時間だよ」と言われているような気さえしてくる。

「思い」は何よりも強い。思いがすべてを導いて、思いは時空を超えて実現される。すっかり忘れていたけれど、どうやらあの頃の「思い」に回帰する時がきたのだろうか。

次に日本へ足を運ぶ際には、置き去りになっている私と同い年のスペイン・フルニエ社のマルセイユタロットをチェコへ連れてこよう。

循環は同時に起きている

私たちは、誰かを支え、誰かに与え、誰かを守ることによって、その存在から支えられ、力をもらい、守られている。親と子もそうだし、友人や恋人との関係もそうだし、支援者する者とされる者の関係もそうだし、飼っている犬や猫との関係だってそうだ。(そして、「誰か」は確かに誰かでありながら、それはまた「私」でもある・・・という話はまたいずれ。)

それは、この世界にあまねく広がる「めぐり」なのだと思う。 放つだけ、与えるだけということは決してなくて、放てば同時に響き、還り、与えれば同時に何かを受け取っている。

強い者が弱い者を守っているようでいて、同時に、弱い者の存在によって強い者は支えられている。「弱い者」という対象があって初めて「強い者」という認識が成り立つからだ。 どちらか片方ということは有り得ず、目に見える形や意味を超えて、互いに支えあい、守りあい、作りあっている。

たとえば、世話をする者と世話を受ける者もまた同じで、本来は一方的なものではなく、そこには必ず互いにバランスされた循環がある。しかし、それをある一定の形や意味に当てはめようとすると、時にそこには無理が生じて、本来の循環が見えなくなってしまう。

形や意味にとらわれて、本来自然に起きている「めぐり」が見えなくなる時というのは、どこかに無理があるか、正直ではないことがあるか、または、変化の末にその「場(関係)」が適切ではなくなったということなのだろう。そんな時にはたいてい破壊が起きて終わりが訪れ、自ずと再生が起きていく。

そうして、いつも最適なバランスへと変化しては、エネルギーはめぐり続ける。

形を超えてめぐるもの

私たちは目に入る世界を現実だと思って生きているので、どうしても形にとらわれやすい傾向がある。夢やビジョンにしてもそうで、「あれを手に入れたい」「あれを実現したい」とつい形や結果を思い浮かべてしまうも。

しかし、いつだって本当に求めているのは、形以前の何かであり、形を超える何かだ。

あらゆる形はひとつの現れではあるけれど、ある形として現れ、形として表した後にも、生のかぎり意識は変化していて、ひとつの形に留まることはない。だから、形は最終目的にはなり得ないのではなかろうか。形を求めたとしても、そこには終わりがないように思う。

手に入れたり、実現したりする形(結果)が充足を与えてくれるのではなく、「手に入れよう」「実現しよう」と思い、それに向かって没頭するという行為と専念の中にこそ本当の充足がある。夢中になって行動し、エネルギーが余さず循環されている時、私たちは最も満たされているのではないか。

たとえば芸術家が、素晴らしい作品を作っても作っても満足し切れずひたすら作り続けるのは、そういうことなのだろうと思う。形はひとつの結果であり、またひとつの経過でもあり、そして、ひとつの死だとも言える。発露したエネルギーがひとつの形をもって死を迎え、そうしてまた新たに発露していく。

そもそも私たち自身が、肉体という形をして在る、意識という形の無いものだ。目に見える形を追い求めながらも、形ならぬことの中に充足を覚えるという不思議も、自分というものの不可思議を思えば当然かもしれない。

思い描き、専念して、そうして成し得たり、手に入れたりした形も、「こんなにエネルギーを注いだんだから」と執着して囲いこんでしまうと、形という死に留まったまま再生できなくなる。モノであれ、金であれ、結果として現れた形は、さらなる地平へと放たれ、開かれ、分かち合われることによって新たな生を得ていく。

この世は目に見える形で溢れているけれど、そこにめぐっているのは形のない「何か」だ。形であるけれど、形ではない。形として現れながらも、形を超えてめぐるもの。世界は、現実は、その両面で成り立っている。そうして、バランスされながら変化しつづけている。

形に終わりはないし、私たちという「何か」にも終わりがない。無数の形を成しがら、無限に循環するエネルギー。

「私」も「世界」もそんな風に見える。

Out Beyond Ideas

Out beyond ideas of wrongdoing and rightdoing,
there is a field. I’ll meet you there.

When the soul lies down in that grass,
the world is too full to talk about.

Ideas, language, even the phrase “each other” doesn’t make any sense.

                      – Jalal al-Din Rumi

正直に認める力、弱さを受け入れる力

自分の内側にある欲深さや傲慢さ、嫉妬、恨み、憤り、そんなつい蓋をしたくなる側面。そういった「弱さ」は、見ないふりをし、抑え隠して、無いものとして振る舞うほどに、なぜかますます表に滲み出てしまう。なぜならば、「ある」ものを「ない」とする欺瞞の上には、すべてが嘘になるからだろう。

弱さもまた確かに自らの側面であると潔く認めることによって、それは反転し、自分自身へと統合されていく。

目を背けるから歪んで見える。認めないから捻れてしまう。あってはならないものならば、初めから存在しないのだ。光があれば影があり、生があれば死があり、表があれば裏があり、善があれば悪があるこの世においては、すべてが「ある」という前提に立つことによって初めてクリアな視野が得られる。

己の醜さも、汚さも、弱さも、真正面から受け止めたなら、それらは形を変えて力となり、我を照らす光となる。

芥川龍之介が見た歯車

ふとした話の流れで、芥川龍之介の小説『歯車』について、ある人と短い言葉を交わした。

僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云ふのは絶えずまはつてゐる半透明の歯車だつた。僕はかう云ふ経験を前にも何度か持ち合せてゐた。歯車は次第に数を殖やし、半ば僕の視野を塞いでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだつた。〉ー 芥川龍之介『歯車』より

『歯車』の中で「僕」の視界を何度も襲う半透明の歯車は、閃輝暗点だったのではないかと言われている。

閃輝暗点とは、視野の一部に光る点が現れ、やがてそこからギザギザと尖った幾何学模様のような光るものが動きながら広がって、視界が覆れてしまう症状だ。必ずしもではないが、その後に強い片頭痛を伴うことが多いと言われる。視覚に生じる症状だが、眼球の病気ではなく、後頭部の脳血管の収縮とその後の拡張が原因だと考えられている。

私も、この閃輝暗点を何度か経験している。初めてその症状が現れた時には、まさに芥川が描いた通り「数を増やしていく半透明の歯車」が視界を遮り、咄嗟に『歯車』の描写を思い出したことを覚えている。

『歯車』は芥川の晩年の作品であり、彼はこれを書き上げて間もなく自ら命を絶った。作品として出版されたのは、彼が死んだ後のことだ。

しかしまた『歯車』は、彼の最高傑作とも評されている。作中には、芥川自身が体感したであろう、死を臨み、死を望む精神状態がありありと描かれている。「僕」の精神が崩壊していく様が、いくつもの神経症的症状を通して描写されているのだが、その精微な文章はまるで美しい音楽のようで、読むたびに不条理ともいえる幻惑的な世界に抗いようもなく引き込まれてしまう。

芥川は、自身の病と苦悩、そして死さえも文学へ昇華しようとした。死を間近に感じることによって、彼の感性は一層研ぎ澄まされ、その筆致はいよいよ鋭さを増したのかもしれない。

思えば、14歳の時の出逢いから変わらず聴き続けているBill Evansに関しても、私が個人的に最も惹かれるのは彼の晩年の音だ。

「緩やかな自殺」とさえ言われる晩年を送ったBill Evans然り、彼らのような存在は、死をも芸術の裡へと取り込もうとする「衝動」そのものであり、どこまでも表現者としてしか生きられぬ才能なのだろう。

さて、話は脱線してしまったが、久々に芥川龍之介をじっくりと読み返したくなった。ありがたいことに、青空文庫で全作品を読むことはできるが、できるなら紙に印刷された文字で読みたい。

そういえば、芥川について会話を交わした人は、朗読も聴かれたのだそうだ。文字で読むのと、朗読を聴くのとでは、同じ作品に触れたとしても脳の反応が異なりそうである。「良い朗読で聴くと、硬度の高い結晶をのぞき込んでいる気分になる。」と仰っていたので、ぜひ試してみようと思う。

うつろうもの、変わらぬもの

新月を迎える直前に、この夏に出会った人を通して愉快な体験が流れこんできた。それによって、自分の内側に思わぬ動きが生じている。長らく静かな余白だったスペースに、新たな衝動が湧き出している。

月に体のリズムが重なって、今はまた少し減速しているけれど、焦ることなくひとつひとつを愉しんでいこう。

あれとこれとを無理に線でつなぐ必要はない。それとこれは別々でいい。愉しめるままに情熱を注ぎ、今に専念していれば、いつかまったく思いもよらぬ時にすべてがひとつのモザイクのように浮かび上がるだろう。

ドラマ初出演

友人から唐突に、ドラマのエキストラ役に参加しないかという連絡が入った。内容は「タクシーに乗っている日本人旅行者役」とのこと。きっと俳優さんたちが演じる背景として、ただ車の後部座席に座っていればいいのだろうと思い、おもしろそうだと気軽に引き受けた。

そして今日は、紹介者である友人とともに朝から撮影現場へ。「日本人観光客に見えるようにするには、どんな服装をすればいいのだろう」などと考えてみたが、私も元は旅行者だったわけだし、普段どおりで問題ないだろうと、やはりまったく気負わずに出向いた。

現場には十数人ほどの撮影部隊と数台のタクシーが停まっていて、既に撮影は始まっていた。担当者に連れられてたどり着いたホテルの中には、ちゃんと待機スペースが設けられ、飲み物やお菓子も用意されていた。必要な場合に備えてプロの手による衣装やメイクも準備されていたし、まだ若そうに見えた男性ディレクターも、他のスタッフ陣や俳優さんたちもみな親切でひと安心。

これまで何度もエキストラ出演の経験がある友人も、「今回はなかなか待遇がよさそうだよ。」と安心している様子。なんでも過去には、現場でひどい扱いを受けたり、困るようなこともあったりしたらしい。

のんびりとコーヒーを飲みながら出番を待っていたのだが、撮影シーンに関する説明は相変わらずなかった。しかし、あくまでも私たちはエキストラ。ただそこに大道具のように存在していればいいのだろうと、直前まで高を括っていた。

しかし、いよいよ出番となったところで、予想とは異なる展開がやってきた。ディレクターから撮影シーンの状況について説明を受けた後、軽い演技指導と同時に「日本語で話してね。」と言われ、しっかり日本人観光客役を演じることになったのだ。

今回撮影されたのは、「チェコ語が分からない日本人観光客が、乗り込んだタクシーでカーチェイスに巻き込まれた」というシーンだった。演技とは思えぬリアルな様子で話しかけてくる役者さんたちを前に、友人の手や腕を握りしめて、ただ思いつく日本語を繰り返した。後から思い返してみると、急な展開にかなり混乱していたが、撮影内容としてはその方が都合が良かったのだろう。

運転席から、助手席から、そして後部座席の窓からと、様々な角度から何テイクも同じシーンを撮影。「ここまで明らかな登場人物として出演するのは初めて」という友人も、小道具として渡された自撮り棒を手に熱演。一時間ほどかかってワンシーンを撮り終える頃には、自分たちも現場のムードにすっかり溶け込んでいる・・・ような気がした。

「次回はちょっと長いテイクだから、楽しみにしていてね!」とディレクターに言われて、昼過ぎには現場を後に。そう、今回は二度に渡って同じストーリーにエキストラ出演することになっている。

自宅に戻って改めて調べてみたところ、どうやら私たちが出演したのは、チェコ最大のインターネットテレビで新しく始まるコメディシリーズのようだった。早速パートナーに話したところ、「そのインターネットテレビ番組はかなり人気があるから、きっと君の顔は多くのチェコ人の目に触れることになるよ!女優デビューだね!」とおもしろがっていた。

まったく思いもよらない展開だったが、予想していた以上に楽しく愉快な経験だったので、次の撮影も楽しみにしている。