自立とは自分の内側の世話ができること

以前にも書いたけれど、他者の言動と、それに対する自分の反応はまったく別のものだ。

感情も感覚も自分の内側からやってくるもの。
誰かや何かはきっかけに過ぎない。

他者がどうであれ、自分がどう感じているかをていねいに認めていけばいい。

そうしてきちんと自分の世話をしていれば、自分の中にどんな反応が起きたとしても受け入れられるし、その度に不要な思考の殻を脱いでいける。

究極的に言えば、意識を注いで働きかける必要があるのは、誰かの言動や反応ではなくて、自分自身の反応、感情、感覚だけなんだよね。

自立とはそういうことなのではないか。

それができていれば、自分と他者との境界は明らかだし、自分も他者も同等に尊重できる。自分の内側にいつも充分に意識を注いで専念していれば、それは自然と外側へ反映される。

実際のところ、自分の中で起きていることに専念していると、他者の言動や反応を気にしている暇はなくなる。

お金も思いも感情も流れて循環しているもの

「お金持ち」という言葉があるけれど、何かを持っている・所有しているという概念は、自他の分離に基づいているのだなと改めて気づいた。

実際には、お金も感情も思いも「流れている」「循環している」というのがふさわしいので「お金持ち」という概念はやがて消えていくかもしれない。

本当は、お金を「持っている人」ではなく「流れがいい人、循環がいい人」だ。そのことが、ますます目に見えてわかりやすくなっていくのではないかと思う。

「お金」という言葉を他のものに入れ替えても同じこと。
さまざまな形に変化しながら流れて循環している何か。
それは、エネルギーともいえる。

Thinking about Antarctica

このところ南極への憧れが高まっている

南米最南端の町アルゼンチンのウシュアイアから南極大陸へと向かうクルーズ船の料金は思っていたほど高額ではなくて「あ、それぐらいならなんとかなるな」と思えた。

もちろん、実査にはクルーズ費用だけではなく、ウシュアイアまでの航空券や現地での宿泊費用も必要だし、南極の環境に対応した装備も必要ではある。しかし、それらを加算してもやはり「なんとかなる」と思える金額だ。

私がまず訪れたいのは南極のウェッデル海側。思いのほか近いうちに実現できる気がしてきた。想像が一気に具体的になって密かにワクワクしている。

南極大陸に関する情報を調べている際にふと「南極で働けるのかな」と思い検索してみたところ、多様な職種の人材募集があって驚いた。医師、看護師、消防士、エンジニア、調理師、大工、修理工等からコーディネーターや総務までとかなり幅広い。

しかし、南極での仕事はほぼすべてが各国の南極観測基地内での任務なので、残念ながらそれぞれの国の国籍所有者でなければ応募できない。日本人であれば国立極地研究所の南極地域観測隊の募集に応募するしかないということだ。

南極で唯一国籍に関係なく応募できるのはポート・ロックロイ(Port Lockroy)という小さな博物館での仕事。1962年以降は放置されていたという元は英国の通信基地だったこの建物は、1996年に修復されて、現在はUK Antarctic Heritage Trustによって運営されている。

写真家ポール・ニックレンのメッセージ

南極や北極周辺の野生動物の貴重な姿をとらえた写真で知られる写真家ポール・ニックレン(Paul Nicklen)のTEDトークを観た。

彼が南極の海で出逢ったヒョウアザラシとのエピソードはまるでおとぎ話のようだ。彼自身も語りながら涙をこぼしそうになっているけれど、彼の話を聞いて私も泣きそうになった。凶暴な捕食者として悪者のように語られるヒョウアザラシだが、それはメディアによって作られたイメージだと彼は言う。

彼は写真を通して地球の神話を語る存在なのだと思う。

『Animal tales from icy wonderlands (Paul Nicklen | TED2011) 』
(動画は日本語字幕付き)

 

フェルナンド・ペソアのこと

Today marks the 83rd anniversary of Fernando Pessoa’s death. I clearly remember the moment when he visited me in my dream about four years ago. What he said to me was very vague but it still inspires me.

11月30日はフェルナンド・ペソアの命日。

四年前、眠りに落ちる間際の曖昧な意識の中に彼が現れたことは忘れられない。彼から何かを託されたように感じたけれど、私はそのまま眠りに落ちた。その後に見たのは海に浮かぶ船の夢だった。私が初めてポルトガルを訪れたのはそれから2ヶ月後のこと。

 

“I See Boats Moving” – Fernando Pessoa

I see boats moving on the sea.
Their sails, like wings of what I see,
Bring me a vague inner desire to be
Who I was without knowing what it was.
So all recalls my home self, and, because
It recalls that, what I am aches in me.

Costa Nova, Aveiro, Portugal

内側の循環と外側の反映

私はこれまで、何かを購入したり旅に出たりするためにこつこつ貯金をしたという経験が一度もない。

そもそもさほど高額な物を購入したことはないけれど、たとえば今も手元にあるライカのカメラを譲られた際には、そのすぐ後に思わぬところからまとまった収入があり、時間をあけずにレンズを購入することができた。

また、旅についてもやはりいつも思いもよらぬ形で費用が舞い込んできた。

時には時間の差があったけれど、なぜか具体的に浮かぶ場所へはまるで見えない流れに運ばれるようにたどり着く。だから、必要な時に必要な場所へ行くことになっているのだろうと思って、今ではすっかり流れに委ねている。

 

手元のお金はいつもそう多くはなかったけれど、自分が無理なく生きるために必要な分は常になぜかめぐってきた。

そういう経験が重なるにつれ、お金とは循環そのものだと実感するとともに、お金にまつわる状況は、自分の感情や感覚そして環境に対する態度とシンクロするということを学んできた気がする。

逆に言えば、何かのためのお金が用意できない(入ってこない)ということは、今それは自分にとって必要ではないのだと思っている。もしかしたら時間が必要なのかもしれないし、まったく違う経験が必要なのかもしれない。なので、そう気づいたら忘れることにしている(というか忘れてしまう)。

 

相変わらずクルシュー砂州への旅(なぜかもう既にそこにいるかのような体感を自分の中で味わっている)を思い描き、南極へと思いを馳せながら、そんなことにふと気づいた。

自己受容と世界の関係

私はいわゆるハイとローの差が大きい性質だが、自分の状態を無理に制御しようとしては苦しんだ過去を経て、今ではその時々の状態を素直に認めてなるべくそのまま過ごすことで快適さを保っている。

リトアニアで彫刻家として活動しているというパートナーの同級生も、過去に双極性障害と診断されたことがあると聞いてますます安心した。

気分と体を無理やり制御しようとせず、その時々の状態をありのまま認めることで楽になり、今できることや今やるべきことだけに淡々と専念できるようになった。

どんな性質や状態であれ自分が自分にOKを出すと、周囲や環境もOKなものになっていくということを身をもって経験している。

 

自分の内側が快適でないと感じる時や、微妙な違和感を覚える時には、今まさに自分が感じていることを手書きで書き出している(私の場合はパートナーにも伝えるので英語で書く)。

書き出すことによって、自分の中にどんな無理や我慢があるのか、自分は本当はどうしたいのかが見えてくる。

無理や我慢は頭(我)の都合が体(心)をねじ伏せている状態なので、書き出すことによって気づいた我慢や無理をすっぱり辞める。そうしてパートナーや周囲に正直に助けや協力を求める。

ただそれだけのことだが、これを繰り返すことによって自分にとってより無理のない環境が作られていく。

ハイな状態とローな状態との移行期や、生理前などの不安定な時期には、そのようにして書き出すことが多い。実際には書いて自分で気づくだけで楽になることがほとんどで、そうして自分の中が楽になれば、状況や環境もシンクロして変化するのを実感している。

 

私の中の海

アウトドア活動にはまったく興味がなく、完全にインドア派で引き篭りがちな性分だが、なぜか冬の海には昔から惹かれてやまず、実際にこれまで何度か旅をしてきた。

風は痛いほど冷たく、空は淡く重く曇り、周囲に人の気配はない。
ただ繰り返す波の音と鳥たちの声だけが聞こえる。

私の中にある海のイメージ。

Costa Nova, Aveiro, Portugal

北へ、南へ

“Every dreamer knows that it is entirely possible to be homesick for a place you’ve never been to, perhaps more homesick than for familiar ground.”
                         – Judith Thurman

 

以前にも書いたように、冬のクルシュー砂州に惹かれ続けている。先日、実際に訪れたことがある人から詳しい話を聞くことができ、イメージが一気に具体的になった。

行きたい場所へは行くのがいいし、それを素直に表明していればこうして情報がやってくる。

まずは冬の間にこの旅を実現できればいい。

そして、このところは自分でも不思議なほどに南極や北極圏に惹かれている。理由もなく気になって仕方がなく、毎日写真や映像を見ては「どうやって行こうか」と考えている。

極北へも行きたい、南極へも行きたい。ならば、どちらへも行こう。資金は?ルートや方法は?道具やカメラは?というのはこれから動いて探していけばいいや。とにかく決めたら動き出せる。

一致とズレが示すもの

ライカギャラリープラハで開催中の日本人女性写真家サトウヒトミさんの写真展を訪ねたのは水曜日のこと

その翌日、あることに気づいた。私は一年ほど前に、自分が同じギャラリーで写真展を開いている明確なイメージを描いていたのだ。

 

「写真展の開催を目標にすれば、本腰を入れて写真を撮るようになるのでは」と思い、自分の写真展をイメージしてすぐに浮かんだのがライカギャラリープラハのカフェスペースだった。

だから、その通りに、しかも「一年以内に」と手帳に書き留めていた。

ヒトミさんの写真展を訪ねた際にはそんなことはまったく忘れていた。なぜ翌日になってそのことを思い出すことになったのかは不思議だった。

 

そして、今日になってふとひとつの見解に行きついた。

それは、一年前に私が描いたイメージと書き記したことは、頭(我)の作為だったということだ。

「写真展の開催という目標を作れば自分はそこに向けて動くだろう」とたくらみ、さらに頭(我)が分かりやすい形、つまり「人にお見せできる自分、賞賛されるような自分」を描いたわけだ。

しかし、そうはならなかった。
なぜなら、それは本質が求めるものではなかったからだろう。

では、本質は何を求めていたかといえば、ただ純粋に命(エネルギー)を注ぎ込めること、没頭し夢中になれることだ。本質の望みに変わりはない。ただ行為そのものとなり、時そのものになる状態を求めている。

それこそが満足というものだ。満足とは、結果としてついてくる形によって得られるものではなく、命を十分に注ぎ込む行為そのものの中にこそある。

 

『自分の中で、聞きたい褒め言葉が用意されてるならやらない方がいい。それは自分が本当にやりたいことではない。』というある人の言葉をふと思い出した。

そして、自分の言葉を振り返る。

『「私」という主語が抜け落ちれば、あらゆる願いや望みは既に今ここで完璧に叶っている。「私」という主語がなければ、つまり自他という分離の幻想から抜け出してみれば、そもそも何かを「願い、望む」ということすら必要ない。』

 

現実はいつも真実を映し出して見せてくれる。
本質が動く方へと歩み続けよう。