私が助けるのではなく、その人が自ら助かるということ

このところ女性からの性にまつわる相談がつづく。隠されたもの、タブーとされるもの、闇の中にあるものを、痛みとともにそっと打ち明けられている。

性にまつわることは、生と死にも繋がっている。
さまざまなレベルの暴力と破壊、ゆるしと変容、死と再生。

他者の話を聞きながら、私自身の経験だや家族を通して体験したことなど、思いがけず自らの過去を振り返っている。そうして私の過去もまたふたたび変容していく。

こういう時、私は私、あなたはあなたであると同時に、あなたは私でもあり、私はあなたでもあると感じる。彼女たちはいつかの私。私はいつかの彼女たち。

それぞれ異なる体験を経てきているが、それらはどこかで融合している。

 

たとえば10年前の自分だったらこうはいかなかったと思う。3年前でも全く違っただろう。他者が語る物語の重さに揺さぶられただろうし、つい相手を助けようとして感情移入し、ひどく消耗していたかもしれない。

しかし、今は全く引きこまれる感じがない。
ただじっと動かない静かな湖面になる感じだ。

 

助けようと思うと、内側の力は「思い」に握られて流れが滞る。また、助けようとすると、むしろ相手は閉じてしまうことも多い。過去にはそういう苦い体験もしてきた。

私が助けるのではなく、その人が自ら助かるのだ。だから、その人が自ら癒えて、自ら脱して変容していく姿をじっと静かに見ている。

そうすると「私」が何も意図しなくても、差し出すべきものや必要なものは自ずと流れていく。自然な共振が起きていく。

 

ある人が唐突に打ち明け話をせずにいられなかったのは、「もうこの『物語』を生きるのは無理だ」と、彼女の肉体が限界を迎えているからではないかと感じた。それはまた、変容(治癒)が近いということでもある。

不要になった「物語」を脱ぎ去ろうとする人に必要なのはおそらく、ただ素直に語り、放つことだろう。

私にできるのは、助けようとせず、導こうとせず、ただ静かに私自身であることだ。そして、自分の内から自ずと流れ出ていく力をコントロールしないこと。

そうして、その人が自ら語り、自ら癒えて、自ら変容していくのを邪魔しないこと。

それは、善も悪もない今を静かに共有すること。
起きることを信頼し、私という空間を自然の流れにゆだねること。

私が私であることによってできること

たとえどこにいたとしても、何だっていつからでも始められるけれど、思わぬ経緯で海外で暮らすことになって良かったと感じるのは、新しい仕事や未知の世界に飛び込みやすくなったことかもしれない。

生活も仕事もあらゆることが初めてだらけなので、失敗することへの抵抗感が薄れた。また、私の存在自体がこの場所では少数派なので、年齢や経歴、経験の有無に関わらず新しいことにチャレンジしやすくなった。

日本にいた頃は、私自身が今より他者の目を気にしていたというのはあるだろう。

海外で暮らしていたら、分からないことは尋ねるしかないし、たとえ言語が使いこなせなくてもはっきり主張しないと存在すら見過ごされるから、外面を気にしている場合ではない。

おかげで不要なプライドが抜け落ちたと言えるかもしれない。

 

あのまま日本で暮らしていたら、演じることに興味を持つ機会などなかったのではないかと思う。たまたま私が日本人だったから、チェコのドラマに出演する機会を得て、それがあまりに愉しかったから、さらなる機会を求めて動いているうちにさまざまな縁が繋がって今がある。

様々なオーディションと撮影に挑戦してきたこの一年の中で実感しているのは、私が以前よりも自分を繕わなくなったということ。もちろんできる努力はする。必要に応じて変化もする。しかし、できないことはできないし、別の誰かになることもできない。

いつでも今、私が私であることでできることをするだけだ。そして、それは無理がなくて快適だ。誰かと自分を比べて一喜一憂することはなくなる。

今の自分にできること、今の自分がやりたいことにはどんどん取り組み、できないことは素直に認める。そうして私が私であることでできることに専念していると、だからこそ出逢える人や機会がやってくる。

また、今自分が取り組んでいることを、別の目的のための手段にすることもなくなる。できないことへの言い訳もなくなるし、やりたいことへの理由や理屈も不要だ。

私が私であることでできることと、今の自分がやりたいことに専念するのは、やはり最もスムースで早い。

 

先日、友人から「やりたいと思いながらまだやれていないことはある?近い将来にしたいことは?」と問われて、今のところやりたいことはすべてやっているなと思った。

演じることも、書くことや写真も、今の私がやっていることは、実は10代の頃やりたかったのにやらなかったことの延長線上にある。

20年以上も前に「私は〇〇をします」と咄嗟に人前で口にした(そして自分でびっくりした)ことは、今でも「いずれやることになる」と思っているので、やりたいことというよりは、内と外のタイミングがあう時のために常に準備している感じだ。時が満ちる日に向けて必要な経験を重ねている。

自分にとって本当に必要な「問い」

自分が本当に求めている「問い」に正直になれば、答えは自ずと出てくるもの。

反対に、問いをあいまいにしたまま答えを探しても、どこにも見つかるはずはない。

誰かに答えを求めるのは容易い。なぜかというと、自分にとって本当に必要な問いを考える必要がないからだ。しかし、そうして得られるのは「その人にとってふさわしい答え」でしかない。

自分が本当に求めている答えを導きだすには、自らの問いを見つけるしかない。

自分の問いを自らで見つけるのは、実はそう難しいことではない。ただ正直になるだけのことだ。自分の中にある嘘や、否定や、「頭の都合」にとらわれずに、心身が今ここで感じていることを素直に認めること。

そこにしっかりと向き合えば、必要な問いは明らかになり、答えも自ずと出てくる。

ヴィノフラディ地区を歩く

今日はあるエージェントを訪ねて久しぶりにプラハ10区方面へ。用事を済ませた後は特に急ぐ予定もなかったので、帰りはいつも通りのんびりと散策。普段あまり足を運ぶことのない地域を歩くのは楽しい。

ふと目をやった建物の壁に記されていたのはアントニーン・ドゥヴォジャーク(Antonín Dvořák)の名前。といっても作曲家ではなくて、建築家のドヴォジャークだ。彼はこのヴィノフラディ(Vinohrady)地区に建ち並ぶ数々の美しいアパートを設計し、街づくりに大いに貢献した人物。

給水塔も美しい。

美しいアール・ヌーヴォー様式の建物はヴィノフラディ劇場(Divadlo na Vinohradech)

今日は陽が傾いてからも暖かくて、外を歩くのにちょうどいい気候。行きがけにはトラム事故のため大幅にルート変更することになったこともあり、思いのほかよく歩いた一日。

 

Bill Evansのこと

今日は久しぶりにビル・エヴァンスの『From Left To Right』を聴いていた。

このアルバムを知ったきっかけは、外出中にたまたま耳にした「Dolphin」だった。不意に流れてきたピアノの音色がビル・エヴァンスに違いなく、しかし聞き覚えのない曲だったので調べてみたところ、彼がフェンダーローズを弾いているこのアルバムにたどり着いた。

 

ちなみに、「Dolphin」の作曲者であるブラジルを代表するピアニスト、ルイス・エサ(Luiz Eça)とビル・エヴァンスは交流があっただけでなく、エヴァンスのブラジル公演の際には共演もしていて、その演奏は出版もされている。

 

『From Left To Right』は夏が終わると聞きたくなる。空気が冷えてくると、あたたかみのあるフェンダーローズの音色がなお心地よい。ビル・エヴァンスの作品の中では異色扱いをされることもあるようだけれど、彼の抒情的で美しい音色だけでなく、明るく無邪気な奔放さも伝わるすばらしい一枚だ。

 

15歳以降の私はビル・エヴァンスの音楽と一緒に生きてきたといえるほど、繰り返し彼の音を聴いている。聴くたびに新しい感覚と発見があると同時に、過去にその音を聞いた時のさまざまな記憶が蘇るので、時には時間の感覚がなくなりそうになる。

これまで何度も何度も「なぜここで?」というような時と場所で、不意に彼の音が流れ出すということがあった。それらはいつも、私が困難の中にある時や、大きな転機の最中にいる時だった。

まるで私の状態にシンクロするかのように思いもよらぬところからやってきた彼の音に、どれほど多くの力をもらったことだろう。不思議だなあと思いながら、いつしかそれは「OK」ということなんだと思うようになった。

それは、「私」を超え、思いを超えて、時そのもの、命そのものを生きることへの「YES」。

フラクタル

目の前で起きていること、私が見ている世界は、私の内側で起きていることの相似形。

見聞きしたことを他人事として眺め、誰かや何かが変わることを期待しているだけでは、何も変わらないし、変わるとしても膨大な時間がかかるだろう。

目にするすべてを「自分の内側でも起きていること」として見ることができれば、自分が動いて、自ら変わることができる。

そうして世界は変化していく。

「なぜ?」の先にあるものへと

チェコの友人から、英語で報道された日本のある出来事について「なぜ?」というメッセージが届いた。

ちょうど私自身も見聞きしたことのある内容だったので、日本語で書かれた他の記事を読み直し、そこに書かれていた出来事の背景を伝えた上で、互いの考えを述べあった。

たとえそれが一つの出来事、一人の存在だとしても、そこには常にいくつもの他の要素が関係している。そして、一つ一つの記事は、それぞれの視点から書かれたものであるということを覚えておく必要がある。

たとえば今回の場合、彼女が読んだ英語の記事の中には、その出来事が起きた背景についてはまったく書かれていなかった。だから、彼女が「なぜそんなことが起きたの?」と感じたのも当然のことだったと思う。

その出来事に至るまでの長い経緯や、彼女が読んだ記事には書かれていなかった事実について調べ直し、それらを彼女に伝えた上で、ようやく対話を始めることができた。

 

あるひとつの視点を通して書かれた記事(さらにそこには筆者の思惑もあるだろう)だけを読み、ただ感情的に反応するだけでは物事は動かない。

「なぜ?」を追求するには他の記事を調べたり尋ねたりと、事実を多面的に知る必要があり、それは労力を必要とする。

さらに、そこから「では、私(私たち)はそれに対してどのように感じるのか、そこで何ができるのか、そこから何を学び、どのように行動していくのか」ということを明らかにするには、さらなる労力を要する。

 

「私は知っている」という思い込みに陥らずに、自ら動いて物事を多面的に眺め、自ら考えて行動するというのは、肉体(命)の動きとしては当然のことだけれど、頭は楽をしたがるもの。

しかし、労力を使うことを回避していると、私たちは古い殻の中に閉じこもることになる。

知っただけでは何も起きないということだ。
知り、気づくことは、始まりでしかない。

今回、彼女がたまたま「なぜ?」を投げかけてくれたことによって、そんなことを改めて考えた。そして、彼女とは結果的に良い対話ができた。

私たちはそれぞれに異なる視点や立場から、異なるものを見ている。それらをどのように持ち寄り、どのように活かすかによって、生じるものもまた異なる。

 

 

愉しいコマーシャル撮影

本日はコマーシャル撮影日。朝から地下鉄とバスを乗り継いでプラハのほぼ東の端にあるスタジオへ。普段は足を運ぶことのないエリアをバスに乗って揺られるのはなかなか楽しい。

本日の衣装は上下グレーのマニッシュなスーツにネクタイ。さらに自前のメガネも装着して、いざ撮影。音楽と歌にあわせてリズミカルに展開する軽快なコマーシャル、どんな映像になるかはお楽しみ。

今日もまた、新しい経験と多くの嬉しい出会い恵まれた楽しい一日だった。

Recharging

午後一番にある事務所へ出向いた後、久しぶりにあてもなく歩いた。もう空はすっかり秋の様子。夏の週末にはたくさんの人が集まるこの公園も今日は静か。

あちらもこちらも秋の色彩。黄色に染まった木々と青い空というコンビネーションは大好きなコントラスト。

先週いきなり加速した流れがまだ止まらず、次から次へと仕事にまつわる話がやってくる。毎日どこかの事務所やスタジオや現場へ出向いているこの流れはいったいいつまで続くのだろう。

その合間にはまったく別の仕事のやり取りも起きていて、同時進行する複数の速い流れになすがまま運ばれている。

今日は気温も湿度も心地よくて歩くのが気持ちよかった。久しぶりに自然の中をのんびり歩いて、やっとエネルギーチャージできた感じ。