We are water.

We are dreaming water in different tubes.

I am seeing the reflections on the water in the transparent tubes called ‘others’.

You are hearing the sound of water flowing through a tube called ‘me’.

 

水面に揺れる反射光を見るたび「私」とはあれら一瞬の輝きのようなものだと思う。とどまることのない無数のゆらぎ。

誰かという透明な筒に流れる水に反射する光と色を見ている。
私という透明な筒に流れる水の反響が届いている。

Aveiro, Portugal, 2014

日本語の私と英語の私

私は現在チェコで暮らしているけれど、チェコ語ではまだ自由に会話はできないため、英語をメイン言語として生活している。

時々、多言語話者の友人たちと、言語が思考や感覚にどのような変化をもたらすかについて話すことがある。今日もまたそんな話になったので、改めて自分の感覚を振り返ってみた。

私の場合、英語で話している時には、自他の境界がハッキリとして、感覚や感情もくっきりと色分けされていくように感じる。英語で話し、英語で考えることは、物事を俯瞰的に観察し、客観的に理解する視点をもたらしてくれる(つまり、メタ認知が進む)。

日本語で話す時には、言葉に自分が包まれていくような感覚がある。客観的になるのは難しく、言葉と同化していくような感じだ。だから、日本語で詩や散文を書くのは愉しい。情緒や余韻が分離せずに、グラデーションとなって陰影を描いていく。

日本語文学に感じるおもしろさのひとつは、すべてを明らかにせず、隠すことによって匂わせる陰影の豊かさにあると思っている。読む者の想像力を掻き立てて、多様なファンタジーを呼び起こす。私にとって日本語は物語的な言語だ。

これはあくまでも私個人の感覚だが、その点において英語はまったく異なる。私の場合、英語で思考する時にはもっと客観的な自分がいる。なので、他者との対話やディベートなどの場面では、英語で話す方が快適で便利だと感じることが多い。

この体感の違いはなかなか興味深い。

一つの言語だけで生きる必要はないし、「自分」なんていう不確かなものが一言語に収まるはずもないので、複数の言語を習得しながら新しい「自分」を発見し構築していくことは、私にとっては自由で愉快だ。

日本語を使う際に現れる私と、英語を使う際に現れる私は、どちらも本当の私だ。

そもそも「私」とは語る言葉によって作られていくので、複数の言語を用いて生きる場合には、より多様な「自分」が発掘され、作り出されていくのだろうと思う。

そしてまた、言語そのものが一人の中で影響しあい、その人独自の言語が作られてもいく。

まだまだ今は初級レベルだけれど、これからチェコ語を習得していくにつれ、自分がどのような感覚を新たに体験していくのかを楽しみにしている。

すべては「今」に完結している

いつも「今」にある(専念する)ということは、いつでも今ここに新たに生まれ同時に死んでいくようなことだ。

常にそのような状態でいるのは容易くないかもしれないが、「今」の自分の感覚や本音を「今」ここで認め、味わい、表していれば、「私」は常に「今」ここで完璧に達成されて完結する。

関係というのも、その立場や役割を外してみれば、常に「今」ここで起きては完結している。

今見ている相手は今の自分を映していて、相手によって引き出される今の自分を互いに体験しあっている。そうして、自分も相手も「今」ここで現れては完結する。そのようにして私たちは互いに無数の「今」を生きている。

いつでも「今」という瞬間だけがあるのだが、私たちの頭はそれらを関連付けて、そこに理由や結果、意味などを考え出している。そのプロセスもまた必要だから行われているのだろう。

しかし、理由や意味ばかりにとらわれると「今」にあることが難しくなり、「今」に専念できなくなってしまう。

思考が先行して「今」に専念されなかった時に、感情(エネルギー)の不完全燃焼や蟠りが生じるのだろう。

 

一瞬の完全性

人や何かとの間に起きる共振と循環は、いつでも一瞬で完全に事足りているのだと思う。ほんのひとときの交わりであっても、必要な循環は常に完結している。

だから、その状態を維持しようとする必要はないし、執着しなくていい。それは、時間軸上で関係が継続されるかどうかということとは全く別のことだ。

たとえ長く続いている関係であっても、私たちは常に今新たに出逢いつづけている。逆に、常に新たに出逢いつづけられる相手だから、関係が長く続くのかもしれない。

天王星が牡牛座へ

昨日ある友人から、まるで頭の中の年輪がごっそりリセットされたかのような強烈な変化を体感しているという報告をもらった。

私自身もたまたま友人と話しているうちに、自分にとって真に大切なことがぱっと明確化された。

私を通って流れる命をどんなことに注ぐかはとてもシンプルだ。

自分の体感はもちろん、周囲の様子からも、流れの変化を強く感じるここ数日。

先々のビジョンがより具体的になり、体も意識もどこへ向かうかがはっきりとしている。「この道で行こう」と明確に定まった感じ。

大きな流れに運ばれながら、同時に自らも流れを作り出している。
天王星はいよいよ牡牛座へと移動。さて、新たなフェーズのはじまりはじまり。

自分が納得する選択と行動を

たとえわずかであったとしても自分の中の違和感を見逃さないことだ。

嫌じゃないけれど・・・まあまあうまくいっているけれど・・・でも、何かが違うと感じたなら、その感覚を大切にする。小さな違和感はいつも、エネルギーの注ぎどころや注ぎ方のズレを教えてくれている。

そうした感覚を「でも嫌いではないから」「これまでもやってきたから」などと捻じ伏せていると、本望からはどんどんずれていく。

そうして、やがてはもっと大きな出来事を通して「そうではない(違う、ズレている)」と教えられることになる。

いずれにしても、自分が本当に納得して、本当に満足しているかを確認することだ。わずかな違和感を蔑ろにせず、自分の感覚をきちんと認めて、それに従って動いているか。体が発するシグナルを大切にすること。

能動と受動のフラクタル

私(私たち)が創ったからといって、創造物を支配し独占するとその命は死んでしまう。創造物は私の中から生じたものでありながら、初めから私を超えており、それそのものの命を生きていく。

人を含む生き物も、芸術やアイデアや発明も、創造においては同じことだ。

私が生み出したようでいて、私は創造そのものに巻き込まれてもいる。あらゆる創造の中には、そうした能動性と受動性が同時にある。

おもしろいのは、個の能動的意識だけでは創造は成し得ないことだ。なぜなら、創造そのものの命と時はコントロールできないのだから。

また逆に「巻き込まれている」という受動的意識のみでは苦しみだけが増す。

能動的に受動し、受動的に能動する時、私と創造はひとつになる。
動かされているという意識から、自ら動いているという意識へ。
そして、動いている感覚と同時に、動かしてもいる感覚へ。

能動と受動を同時に生きている。
私でありながら全体であり、全体でありながら私である。

「私」も「世界」も、内側も外側も、すべてはフラクタル。

挫折を通して見えてくるもの

思いもよらぬところで久しぶりに挫折感を味わった今日。この痛みを伴う感情は、過去7年の間(特にこの3年間)に何度も味わってきたものだ。

ここにきてまたこの感情を味わう必要があるのかと落ち込んだけれど、まだまだ受け入れられることを待つ自分が潜んでいたということだろう。

挫折感を覚えた自分も、内側からあふれ出した悲しみも、そのまま認めることによって自ずと癒えていく。受け入れることによって解放されていくプロセスを体験しながら観察している。

思いもよらない流れに運ばれ、怒涛のように押し寄せる変化の中で、幾度も挫折を味わっては再生してきた自分を、もっと褒めていいし、もっと誇っていい。

これから始まる新しい7年に向けて、私に必要なのはそれだろう。
ここまで本当によくやってきたよ。

Karlštejnへ

今日は午後からふらりと電車に乗ってカルルシュテイン城(Hrad Karlštejn)へ出かけた。プラハ・スミーホフ駅から電車で約30分、ちょっとした遠足にちょうどいい距離だ。

カルルシュテイン城は、チェコにある数々の城の中でも特別な存在として見られている。ボヘミア王にして神聖ローマ皇帝でもあったカレル4世によって1348年に建てられた城は、王家の財宝や聖遺物の保管場所として使用されていたのだとか。

小高い丘の上に聳えるその姿は、まさに王の城という風格。中を見学するにはツアーに参加する必要があるけれど、森の中を抜けて(またはレストランや土産物屋が並ぶ道路を登って)辿り着く城からの眺めを愉しむだけでも十分にその雰囲気を味わえる。

姫路城のすぐそばで生まれ育った私は、城壁に開けられた窓穴(日本の城郭では狭間と呼ばれる)の形の類似に納得。

カルルシュテインの町はそう大きくはないので、数時間もあればゆっくり歩いて回ることができる。

日曜日の午後遅めに出向いたからか、そろそろ帰り支度をする人が多く、城の中も町の中もあまり混雑しておらず、快適に過ごすことができた。

カルルシュテインープラハ間は約30分おきに電車が出ていて、2階建ての新型車両もとても快適。気軽にふらっと出かけることができる。

 

 

豊かさとは

豊かさとは、どれだけ受け取っているかではなく、むしろどれだけ出しているかで測れるものではないかとふと思う。

それは、どれだけ得ているか、どれだけ所有しているかではなくて、有形無形のエネルギーをどれだけ惜しみなく出せているか。

豊かさとはエネルギーの流れのこと。流れは常に循環している。金銭を含むあらゆる物質的結果は、循環の規模を一時的に表しているだけのこと。

Integrity~現実は意識の反映

最近、自分が口にしたことがわかりやすく現実になることが多く、しかも実現するまでがとても速い。

「こんな人に出逢いたい」と話していたら、思わぬところでそういう人と知り合ったり、「こういうものがあればいいよね」と話していたものが手元にやってきたり。

現実は意識の反映なので、いつでも望みどおりであることに違いはないが、最近はそれが特にわかりやすい形として目の前に現れているのだろう。

語ること、書くこと、考えること、つまり思いと言葉(そして行動)の一致についてますます意識的でいよう思う。

正直に、明確に、シンプルに。